内浦海岸散策ー比那〜宇出津

月末に、同朋婦人会の人々を案内するため、散策コースを作ってみた。

現状はどうなっているのか、9日(月)に訪ねてみた。

比那の海ー西行法師・松島見仏上人出会いの地

『撰集抄』巻3 第一 松嶋上人事

『伝説とロマンの里ー北能登の風土と文化-』第一章 ゆかりの人々 8西行法師、伝説の風景⑪

伝説とロマンの里⑪ 見仏上人・西行法師出会いあの地ー布浦・比那ー(地産地消文化情報誌能登Vol12 2013July) 

きりこ橋

九里川尻川にかかる。こう見えて高さは23.8mある。

芭蕉句碑 白丸宮崎公園

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第4章12 芭蕉句碑

靏の巣も見らるる花の[欠]

富来住凡内民山、寛政甲寅(1794)初夏

 

昔の舟小屋 長尾海岸

長尾の海辺に道路がついてから、住居と舟小屋が並んで建つ景色が見えて、楽しみだった。

今度通った時、昨年春からのわずかの間に、倒壊している舟小屋が目立って、寂しかった。

舟小屋が並ぶ海辺は、代表的な「里海」風景だろうが、まもなく見ることが出来なくなるのかもしれない。

蓬莱島 越坂より

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第5章 自然景観、往来、産業、文化 3九十九湾、弁天島、島々

 

弘法榧

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第一章 ゆかりの人々 6-5弘法榧・豆殻太鼓

マイクロバスを停めることが出来るか…?

 

イカの駅つくモール

九十九湾は、私たちにとってはクラゲだ。学生時代近くでキャンプをし、湾を泳いだ時、クラゲの群れをかき分けかき分けなければならず、泳いだ気がしなかった。

イカは漁は小木を代表する船団。高校の同級生(小木中出身)も根室に嫁いでいる。

 

真脇遺跡縄文館

月曜は休館日だが、高田秀樹館長は仕事をなさっており、いろいろお話ができた。狼煙・横山の石の話になり、縄文石器原石を見せてくださった。

仏石(こぶり石)もそうだという。七尾のお寺で江戸期に手に入れたという同石を見たとき、硬くて黒い石だったので阿弥陀山や三崎で取れるやわらかい石とは違ったものがあるのだなぁ、と感心したことがあったが、ひょっとしたらあれが石器原石の一つだったのかも知れない。

写真右「横山真脇石」、左「大福寺の石(糸巻き石)」(『真脇遺跡2010』)

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第五章自然景観、往来、産業、文化 12火打ち(燧)石、鉄砲石、木の葉石

 

鷹王山上日寺 

『能都町史』第三巻(昭和57年刊)で「個別寺院誌」を担当した折、そのあとも上日寺を何度か訪ねた。

参道に信号があって、青の時だけ通れるので話題になっていた。

今も信号があるのか近くへ行ってみた。写真のようにちゃんとある。近づくと青に変わった。

あの頃はパブリカに乗っていて、山門をそんなに気にせず通ったはずだ。

今乗っているプリウスでは通れそうもなく、一所懸命バックした。

山号・鷹王山は上日寺開基・百合若大臣と鷹にまつわる伝説による名であるが、「高尾」でもあるのだろう。

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第四章 17百合若伝説

仁王門前のお地蔵さんたち

真脇には鷹王山上日寺(高野山真言宗)、行基山新善行寺(浄土宗)、七村山長願寺(真宗大谷派)の由緒寺がある。

千畳敷ポケットパーク

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第五章 6 さまざまな岩、千畳敷

内浦なので、夕日は山に沈むのだが、周りの山が低いのと内海が広いので、あたかも外浦のような夕景に出会える(2009年12月24日撮影)。

 

遠島山 天の羽衣(小浦・羽根)

天の羽衣伝説のある弁天島付近の景観を楽しもうと思ったのだが、6月一杯道路工事で片側通行となっていて、通過するしかない。ここから振り返ってもその場所を見ることはできない。

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第四章 16 田ノ浦の天女

地産地消文化情報誌 能登』34号 伝説の風景㉝ 天女の羽衣ー能登町・田ノ浦海岸ー

天呑の宮(石瀬比古神社)跡

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第二章 4 内浦の寄り神
にはこう書いた。

宇出津酒垂の宮は、祭神が、酒樽に乗って磯に寄りつかれた神だったので、酒樽の宮とも酒樽明神ともいう。

能登志徴』が引用する「能登誌」には、この酒垂の地の端に岩山に、もと三宅小三郎の城内にあった宮を移した「天呑の宮があり、その社地へ登れば宇出津の民家を眼下に見おろし、向こうは越中の山嶽並び立て、渡海の船ども実に手に取るやうに見えて、其勝景はいいようがない」と紹介している。

昔は一帯が入海で、社のある岩山も、もとは海中の岩島だったといい、そこは典型的な寄り神の地である。

ここは、異変があると花が咲かず、折ってはならないといわれていた。

式内社の石瀬比古神社を名乗ったこともあった。