報恩講用蕗刈り
蕗刈りを、今年は5月27日(土)に行った。
27日は午前中戦没者追悼会、午後は同朋会推進員会の講義の日で、追悼会は市武道場が会所なので関係ないが、当寺本堂で行う同朋会講義を終えてから蕗刈りをしていたのが、
コロナ騒ぎで、どちらの行事もなくなった。
それで、27日に蕗刈り、28日茹でた蕗の皮むきを坊守たち5人で行っていた。
なにごとも、大変な労力を費やしながらの日々、そして行事がある。
そして、交通量が減って、自然は例年以上にみずみずしい・・・
そして、小鳥たちの鳴き声も賑々しい(これはそう感じるのかも知れない)・・・
私は昭和53年(1978)刊行の『珠洲市史』第二巻に「仏教伝承」を書いた。
その一編に「塚と伝承」をまとめた。
そこに、天保8年(1837)のコレラ大流行の時築いた経塚伝承が載る。
その時や、後の江戸時代の道調査で知った境界の塚・墓域には眼にみえない疫病と闘ってきた身近な共同体の歴史がある―
けれど、それを語る人もいない。
『珠洲市史』に書いてあることを知っているのは、書いた当人だけだろう。
ついでに書いておくが、塚のデーターを私が作り、実際に現地で測量したりなさったのは編さん室長の故・間谷庄太郎さんだった。
当時30歳の私は、飯田高校野球部顧問をしていて、土日のほとんどが他校との練習試合。
調査に出向く余裕はなく、しばらくは藩政期の郷土文献の分析が主だった。
はなかった。