新緑は曇硝子を青くせり…

2日前から、朝4時半に起きて、…ではなく、目が覚めて、タブの落ち葉を掃いている。
今朝は5時半。
もう、タブの花(?)が咲き、細かい花びら落としている。
落ち葉を掃き出したのだから、気分は夏の終わり。
部屋へ帰ると、こたつが待っている。
気分は春の終わり。
※この話を緑に包まれたお寺の住職さんに話していたら、常緑樹は今が葉と花弁の散る盛りなそうだ。
そういえば、落葉と目立たない花弁がドンドン散っている。
落葉は秋だという常識にズーと住んでいた。
回りの年配者もだいたいそのように思っているようだ。
こんなに大きなタブは生活の場には普通ないのだから、
いまごろ朝早く落葉の掃除をしている人間がいることの方が不思議なのかも知れない。

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栗の葉「新緑は曇硝子を青くせり…」
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タブ、もう葉が散り始めた。
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タブの先端部


書きたかったのは
「新緑は 曇硝子を青くせり
西方浄土の木なる栗の木 東京都 豊英二」

2011年、東日本大震災のあと、詠まれた短歌で
朝日新聞「朝日歌壇」欄でこの歌を見つけたとき、衝撃を受けた。
先ず、「栗」に
西の木、すなわち西方浄土の木、という発想に驚いた。
「緑」が大震災で、全く先が見えず、このまま日本全体が駄目になってしまうのではないか…という思いを
励ますように、生きる強さ、やさしさを持った色だとあらためて気づかさせてくれた。
その励ましが、西方浄土阿弥陀さまからの贈り物。
今現在説法(「阿弥陀経」)、寝ても覚めても称名念仏すべきものなり(「御文」第5帖第1通)の具現だと思えたのである。

当時、メモはしてあった。
あちこちでの話しにこの歌も、用いた。
いつのまにか、私の中では
「新緑は曇り硝子を緑にす」に代わっていた。

この頃のメモは。歌が分かればいい程度だったので、歌だけ記している。
ヒョッとしたら何かの文に用いることになるかもしれない、どなたの歌なのか、知りたいと思っていたのを、ようやく調べに行くことが出来た。
それは、3月30日。
年度末で何人かの人とはもう会えなくなると思い一周した日だった。
県立図書館で2011年の新聞を調べた。
5月23日の朝日歌壇にあった。
東京都 豊英二さんという人の歌である。
5年前の今日。今日は偶然。

家の栗はもう花を付けている。

自然は何があろうと、いのちのサイクルを刻んでくれている。
朝早く目覚めるのも、4時半がもう明るいのである。

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フキ、蕗。民謡では富貴。
♩ 茗荷(冥加)めでたい、蕗(富貴)繁盛…
間もなく蕗刈り。
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山椒にも実がつきだした。
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これは苔。
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こうしてみると何だろう。
藤。
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これは柚子。
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緑々の中で、このような紅もある。