真宗文化論」の今、7日正月-10年前
少し「真宗文化論」の作業を進めたが、全く雪のない7日正月、一日中コタツにいた。
10年前には以下の記事を書いている。
7日正月に向けて、6日の夜は様々な行事が行われる。
2月に行っていたのが、新正月に会わせて1月に行うようになったという話を聞くようになってから、しばらくは7日頃まで正月気分らしきものはあったようなのだが、それも3が日くらいまでになるのは、あっという間だった。
とはいえ、出初め式が6日で、七草がゆといった都会的な風習が入ってきて、違った形での7日正月を感じないこともない。
6日年越し、7日正月の行事である門前のあまめはぎ、7日正月ー叩き堂
は見もし、記録(『石川の祭り・行事』)1999・石川県教育委員会)にも残した。
本来17日の夜行われていた旧柳田村重年の十七夜祭りが6日に移行したという話を聞いたのはいつのことだったろう…
一度はこの行事を見ておきたいと思い、今年は行ってみようと関係者に電話したが、やはり…人手が少なく、今年は2月の11日頃になるのではないか…とのこと。
やはり、と書いたのは、里帰りの人々とともに行事を続けようと1月に移しては見たものの、1月7日も2月7日も同じ程度の人手になり、勤め人が手伝える休みの日に行事を移さざるを得なくなっているという、ムラ状況となってきているのだ。
7日の晩は、今頃、叩き堂、あまはぎをやっているのだなと思いながら、『奥能登散策ノート』作成の趣旨分・要項・作業段取り・調査項目などを書いていた。
そして、二日後の地元2紙(PDF)。
両紙とも「神社の裏山(岩屋)にヒヒが住みつき村人を困らせたので、村人が村の娘を生け贄にして(神の力を借り)ヒヒを退治した(追い払った)」と、娘をいけにえにしてヒヒを退治した話になっている。
いうまでもなく、毎年いけにえにを求めていた猿神を、修験者が犬と共に、あるいは武士が退治するというのが伝承で、生け贄の娘を救うのが主題であるのに、記事は、全く逆の話になっている。
誰か行事の場でこのような話をした人でもいたのか?と確かめてみると、長年このように書いてきたらしい。
今まで気づかないでいただけのことだった。
それはともかく、娘の代わりに鱈をさばいて供えるようになったとの神饌由来伝承があったり、
それまでは刃物を用いなかったのが、この晩、ムラのおやっさまが始めて刃物(包丁)を用いることで、翌日からはムラ全体が普通の生活に入る、人日(じんじつ)の節句へのいわれをうかがわせる行事ともとれることなど、
きわめて重要なドウゴトなのだ。
上の写真は『珠洲市の文化財』より。
この下に説明文を書いたのだが、石川大百科『書府太郎』にほぼ同文で紹介した。大百科では、文化財の時には気づかなかった「包丁始め」にも触れているのでこちらの文を紹介する。
「たたきど」(PDF)。
参考
武士説(PDF)『能登のくにー半島の風土と歴史ー』「異形との戦いー猿鬼伝説」。
二名(にみょう)が中心の「ドウゴト」(PDF)同「幸を供えるームラのドウゴトー」
関連ブログ
大猿退治伝説
生け贄伝説の「小串祭り」
「ユートピアに生きる鬼」
※追記
10年前の記事を載せ、叩き堂祭も無くなったし、時の流れ・・・をしみじみと感じるつもりで、あらためて時にいつ休止になり、そのことに一文を書いたのはいつだったのだろう、とブログ記事を検索するが見えない。
このままでは、休止を知らない人が、6日に片岩へ行けば見ることが出来ると思われるかも知れない。はっきりしておかねば、と過去をたどると、それは2013年のことだった。
タタキドと書いている。
あらためてその時のブログ記事をー。