蝶の「御文」、見玉尼ー人の性は名による

帖外御文『蓮如上人遺文』16通目

静かに惟(おもんみれ)ば 、其人の性は名によるとまふしはんべるも、まことにさぞとおもひしられたり。
しかれば、今度往生せし亡者の名を見玉といへるは、玉をみるとよむなり。
されば、いかなる玉ぞといへば、真如法性の妙理如意寳珠をみるといへるこゝろなり。
これによりてかの比丘尼見玉房は、もとは禅宗の喝食なりしが、なかごろは浄華院の門徒となるといへども、不思議の宿縁にひかれてちかごろは當流の信心のこゝろをえたり。
そのいはれは、去ぬる文明弟二 十二月五日に伯母にてありしもの死去せしを、ふかくなげきおもふところに、うちつゞきまたあくるおなじき文明弟三 二月六日に、あねにてありしものおなじく臨終す。
ひとかたならぬなげきによりて、その身もやまひつきてやすからぬ躰なり。
つゐにそのなげきのつもりにや、やまひとなりけるが、それよりして違例の氣なをりえずして、当年五月十日より病の床にふして、首尾九十四日にあたりて往生す。
されば、病中のあひだにをいてまふすことは、年來浄華院流の安心のかたをふりすてゝ、當流の安心(を)決定せしむるよしをまふしいだして、よろこぶことかぎりなし。
ことに臨終より一日ばかりさきには、なを〳〵安心決定せしむねをまふし、また看病人の数日のほねをりなんどをねんごろにまふし、そのほか平生におもひしことどもをこと〳〵くまふしいだして、つぬに八月十四日の辰のをはりに頭北面西にふして往生をとげにけり。
されば、看病入もまたたれやの人までもさりともとおもひしいろのみえつるに、かぎりあるいのちなれば、ちからなくて无常の風にさそはれて、加様にむなしくなりぬれば、いまさらのやうにおもひて、いかなるひとまでも感涙をもよほさぬひとなかりけり。
まことにもてこの亡者は宿善開発の機ともいひつべし。
かゝる不思議の弥陀如来の願力の強縁にあひたてまつりしゆへにや、この北國地にくだりて往生をとげしいはれによりて、数萬人のとふらひをえたるは、たゞごとともおぼえはんべらざりしことなり。

それにつゐてこゝにあるひとの不思議の夢想を八月十五日荼毘の夜あかつきがたに感ぜしことあり。
そのゆめにいはく、所詮葬送の庭にをいて、むなしきけふりとなりし白骨のなかより、三本の青蓮華出生す。
その花のなかより一寸ばかりの金(こがね)ほとけひかりをはなちていづ、とみる。
さて、いくほどもなくして蝶となりてうせけるとみるほどに、やがて夢さめおはりぬ。

これすなはち、見玉といへる名の眞如法性の玉をあらはせるすがたなり。
蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて法性のそら極樂世界涅槃のみやこへまひりぬる、といへるこゝろなり、と不審もなくしられたり。
これによりて、この当山に葬所をかの亡者往生せしによりてひらけしことも不思議なり。ことに荼毘のまへには雨ふりつれども、そのときはそらはれて月もさやけくして、紫雲たなびき月輪にうつりて五色なり、とひとあまねくこれをみる。
まことにこの亡者にをいては、往生極樂をとげし一定の瑞相をひとにしらしむるか、とおぼへはんべるものなり。
しかれば、この比丘尼見玉このたびの往生をもて、みな〳〵まことに善知識とおもひて、一切の男女にいたるまで、一念帰命の信心を決定して、佛恩報盡のためには念佛まふしたまはゞ、かならずしも一佛浄土の來縁となるべきものなり。あなかしこ〳〵。
文明五(四カ)年八月廿二日 書之

蓮師第一の室如了は康正元年十一月二十二日寂、その第一女は如慶と称し、文明三年二月六日卒。
本文中「あねにてありしもの」とあるは是なり。
見玉尼ば如了の第二女なり。
如了没後その妹蓮祐継室となり、文明二年十二月五日寂。
本文に「伯母にてありしもの」とあるは是なり。
見玉尼は始め存如上入の妹攝受庵見秀尼の弟子となり、浄華院流を相傳す。