鈴木貞太郎(大拙)の下宿先 10日

10日に、TV番組「石川大百科」に関し、鈴木貞太郎の下宿先を訪ねた。


そもそも、話があったのが12月21日。電話でだった。
ブログには書いていない(書けない)が、その日の朝、私にとって極めて大切な方が入院先の県立中央病院で息を引き取られた。
それこそ西田幾多郎が山本良吉の死を知って氷嚢をあて寝込んだ状態の時の電話で、どのような受け答えをしたのか…ともあれ「大百科」で大拙を取り上げるので…、という話だった。
一つ鐘でお迎えする、葬儀の段取り…などを決めたり、相談しなければならない立場だったので、さすがに寝込んではおれなかったが、電話の話もうわの空で聞いていたのである。


26日にディレクターの女性が現地を見においでになったのだが、お取り越し(おとりこし、在家報恩講)の最中で、妻に飯田の下宿先を案内するように伝え、ほとんど話もしないで別れた。


そして10日、現地撮影の為にお越しになったのである。
二日前の電話で、特に何もないので御案内しますよ、と返事しており、11時少し前に家にアナウンサー、スタッフ計4名がおいでになった。
そこで、取材を受ける形で話す番組だったことに気づいた…。
まず飯田の下宿先近くを、アナウンサーさんの質問に答えながら歩いた。
 

私の調査では、貞太郎の下宿先は
畠山家(ナノ部38番地)
その向かい(ナノ部47番地)
それに飯田町現中田家(14ノ13)の三箇所で完結していた。
 

それ以上のことを語る必要性は感じていなかったが、明治21年のことであることなど基礎知識は一応知っておかなければならない。
なによりも飯田の下宿先をどこで知ったのかを失念していた。


鈴木大拙未公開書簡集』は見ていないので、誰かの文書で読んだことに間違いがない。
まず手にしやすい「珠洲市のれきし」(2004年刊)を見た。
ところが、そこには
大拙は兄と共に蛸島の上野左エ衞門家に下宿していた。
下宿先から金沢の友人宛に何通ものてがみをかいている。」
と下宿先を上野家と断定している。
友人は山本(金田)良吉以外に考えられず、彼宛の書簡に上野家発はないのだから、
面倒なものに出会った…という印象だった。


断定は困る。
根拠は何なのだ?


畠山家説は、西村恵信氏の本ー『鈴木大拙の原風景』(1993年刊)ーの手紙写真によって特定したものだし、
その向かい説は、大拙没後40年の新聞連載の折に協力させていただいたとき、畠山家付近で聞き取りを行っていて知ったものである。このあたりに有名な人が一時いた…という話をきいたのだ。
これは山本(金田)良吉宛書簡1~4信によって裏付けられる。
 

ついでに記すと、畠山家の建物が当時のものなら、大拙研究にとってもすこぶる大事だと、
資料館館長時代には新聞社の支局長さんと聞き取りにいったりもしたのだ。

 
上野説が考えられるとすると、
ナノ47(あとでわかったのだが、封書によればこちらが先で、向かいの畠山家に移っている)の前に兄と共に上野家にいたという確かな資料があるか、
大拙自身がそう語ったのか、のいずれかしかない。

この問題は保留にしておいて、飯田下宿先の根拠を探した。、
『北國文華』(2005年3月刊)の勝尾金弥氏の文章に、山本(金田)良吉宛に珠洲から出した手紙の第8、9信が飯田町14-13からのものであることが載っていた。
この記事には地図があり、畠山家向かいのナノ47を示して「大拙珠洲で最初に暮らした家」と書いてある。
上野家は出てこない。

この勝尾氏の考察は「珠洲市上戸町の橋本登喜男氏のリポート、同人誌『つのぶえ』161号『あとがきにかえてー奥能登だより16』(2004・5)に依るところが大きい」と記されているように
橋本登喜男氏が詳しくお調べになっていることを物語っている。
橋本さんなら上野家説も知っておられるかも知れないと思い、お電話した。


そうしたらすぐ『つのぶえ』を届けてくださったのである。
そこにはヒントになる記載があった。
執筆者にも聞いた。
本当のところははっきりしない。
少なくとも…断定する根拠はなさそうだ。
 

その日の夕刊に橋本ときおさんが載っていた。
届けていただいたお礼は電話で申し上げたものの、ただ、恐縮至極。