「ねてもさめても…」ー寝とるとき、念仏いわれんやろ…

先日の真宗講座で、日野先生は「ねてもさめても」も説明なさった。
世代、経験、ひとりひとりの受け止めからの違いがあって、はじまる対話、語れ、語れの世界があるのであろうが、
子供が必ず聞く質問があるというのだ。

それが、ねてもさめても念仏申す。
寝とったら、念仏言われんやろ…

大人は、分別があるため、この質問は、しにくい。
わかったふり、か聞かないフリ。


人より少し余分に聞法しなさいと、時間をいただいているお坊さんは、そのあたりを汲んで、質問されなくても、自分の聞いてきたことや考えたことを披露する。
その一つの例が、先日書いた、和泉式部の歌だ。

 
で、日野氏のこの部分。
お子さんが質問されるのは、寝ても覚めても
……… ということなんです。

この間が、すっぽり抜けている。
しめた。彼の見解聞ける…と思ったのだ。
なのに、どういうことだ。


今、書いている最中に、門前の坊守さんからお電話。
22日よろしくお願い致します。会所は剱地光琳寺さまです。


それまでに、抜けたところのメモ書きを探し出さねば。
人から聞いた、お話しをしっかり伝える。
これが、今の私のやれる唯一の世界。
その人には師があり…
歎異抄第2段の「ただ念仏」の世界が広がってくる。
(註)真宗聖典 p626 これじゃダメか。

たどり着いてくれ…。


 真宗はもちろん、
末法の世だから、
 生きとし生けるものはすべて「唯、念仏」しかない。


 ようやく、昨日の動きと繋がりだした。
 で、その手段としての、お寺巡り、が…かすかに心の奥にうごめいているのだ…。