日本民俗学会50周年記念シンポジューム

宮田登さんとお会いした最後が、
日本民俗学50周年記念シンポジュームが開かれた(1999年(平成11)4月29日)曳舟文化センターの会場と、
その後の記念パーティ席上である。


当時、代表理事は真野俊和氏で、
50周年シンポは、茂木栄、福原敏男、網野房子、森謙二、八木透、宮本袈裟雄諸氏が実行委員となって進められたらしい。
プランがまとまってから、宮田氏に相談したことが、記念誌『老熟の力』後書きp229に書いてある。
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日本民俗学会監修、宮田登・森謙二・網野房子編


それによれば、

シンポジュームの趣旨がまとまってから、
宮田登先生におそるおそる相談をした。
宮田先生には全面的にこの趣旨に賛同していただき、また現実の社会に対して民俗学が何をなし得るのか、民俗学はそれをもっと考えるべきであると言われた。
高齢社会の問題がこれほど深刻であるのに、「老人」に依存して研究を進めてきた民俗学が何も発言できていないことの問題点、民俗学がこれまで多様な<老い>を研究対象にしながらもそれがなお整理されていないこと等を語られた。
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このシンポジュームに先立ち、1997年12月「老いと老人」、
1998年10月「老い」のミニシンポが行われ、1999年にシンポが行われたのだった。


私は、日本民俗学会全会員に寄せられたアンケートに答えたことにより、発表者のひとりに選ばれた。
しかし、葬儀が入れば動けない環境にあり、
土・日もあまり動けず、二つのプレシンポには参加していない。


後書きを書き、中心となって動いておられた森謙二氏とは金沢でお会いして打ち合わせをしたが、
4月29日がどうなるのか分からない中での打ち合わせで、
森氏がわざわざ金沢まで足をお運びになったのに、
意欲も見せずにいたので、森氏は随分嘆いておられた。


そういう状況の中で、東京下町の会場で何人目かの基調報告を行ったのである。
下町で行ったのは向島老人会と民俗学会とのつながりがあったためで、
赤瀬川原平氏の「老人力」という言葉がはやっていた頃だった。
 

私の前に話した大阪の大学の先生は、やーお久しぶりです、一緒に一年暮らした○○です、と向島老人会に呼びかけるような軽い乗りで、
その半分しか時間が与えられていなかった私は、やりにくいな、と思いながら、
「共同体におけるお年寄り」についてお話ししたー内容は同名の題で発表(『老熟の力』p169~184)。


実行委員で前から知っていたのは宮本袈裟雄氏ぐらいで、
司会を勤めなさった斎藤弘美さんも能登を案内したことがある。
実行委員の網野房子さんは網野善彦氏のお嬢さんで、
会場に姿を見せておいでたお母さんの真知子さんたちとは、
やあーと会話を交わし、などはしたのだが…、


シンポの実行委員を中心とするグループとはつながりもなく、
手持ちぶさたでいた。
その時、宮田さんが
「久しぶりに西山節を聞いた。調査公害についても話していただいて有り難う」とおっしゃった。
調査公害という言葉があるのを始めて知ったが、
400人ほどの聴衆が集まり、まずまずの成果に酔いしれ、研究者の社交場と化している会場で、浮かれることもなく、気配りをなさり、遠くまで見とおしておられる様子に感心した。


そして、シンポの模様がようやく、早稲田大学出版部から2000年の暮れに刊行されたのだが、執筆者紹介の中に、
宮田登氏だけが肩書きがなかった。
ところが、最初に「老人文化と民俗学宮田登とある。


開いてみるとその文の前に、

宮田先生が2000年2月10日に逝去され、本書のための原稿を書いていただけなくなった。
しかし、シンポジュウムのための先生のレジュメが残り、また報告を録音したテープも残されている。
そこで、宮田先生自身が執筆されたレジュメの文章を中心に、シンポジウムでの報告および先生のこれまでの「老い」についての著作や座談会での発言を付け加えるかたちで本稿をまとめた。

との但し書きがある。



しかし、その文からは、
ドン・アミーノ風の宮田さんの良さが読み取れなかった。
もったいない。