増山たづ子さんと徳山村

朝日新聞北陸中日新聞増山たづ子さんがご逝去なされた記事が載っていた。
どこかで聞いたことがある方だ。
思った通り、ダムに沈む徳山村の記録を残された方だった。
88才。


あの方の写した写真で、沈みゆく村に合掌している少女の姿があったはずだ…、
その写真が目に焼き付いている。
そういえば、あの写真を見る度に胸がいっぱいになったことがあった。


そのようなことを思いながら、本箱を探してみた。
『ありがとう徳山村』(影書房・1987:昭和52刊)があった

もう本屋さんでは手に入れることが出来ないようなので、一部を引用させていただく(同人の『徳山村写真全記録』は購入可能)。
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増山たづ子写真集『ありがとう徳山村

はしがき
この村に昭和32年、日本一のダムが出来る話が持ち上がり、「来年はダムになる、サライ年は、もうここにはおれなくなる」と言われ、30年にもなります。
私<イラ>もいくら日本一のダムになっても、自分<アガデ、以下方言は略>の大事な故郷がダムになっては、かなわん、と思い、
一生懸命はじめは反対しました。
だけど国の力にはかないません。
国が一度やろうと思った事は、戦争もダムも必ずやるから、大河に蟻がさからう様なものです。
うちのお父ちゃんは、
昭和16年11月2度目の招集で戦争に行き、昭和20年5月29日にビルマインパール作戦で1小隊の半分が行方不明になり、まだ帰って来ません。
横井さんや小野田さんの例もあり、夢にまで見たであろう故郷がダムで消えてしまったらどうして話をしていいか分からんので、
少しでも村の事を残して皆バラバラになってしまうふるさとの事を残して自分の心のささえにしたい、と思い立ち、村の行事、風習、昔の生活、民謡など録音テープも500巻余り採り、また写真も61才からフィルムの入れ方も分からん者が撮り始め、もうこれが消えてしまうと思うと、写しても写しても限りない愛着が湧いて、また写し写しするうちに、アルバムだけでも500冊余りになり、カメラも8台こわし、3台修理して使い、今使っているカメラも3回修理に出し、台数で言うと12台目になります。
どうなっていくか、これからも写し続けたいと思っています。(中略)

栄えてきた村が、そして、何百年もご先祖様が血と汗で築き上げて下さった大事なふるさとが、わずか2、3年で石垣が崩れるように、ガラガラと音を立てて崩れ、消えていくのを胸を痛ませながら、皆で泣きながら見てきまして、皆で村を出ました。
私たちは今、馴れないところに移住して皆さんと仲良くしていただいています。
けれど、移住地での生活再建と、土地不案内のストレスとで、ダムは目に見えない心の傷で、3年間の中にわずか人口約1600人のうち50人くらいが亡くなり、3分の2は病院通いをしています。
私たちはこのような悲しみを抱いて村を出ましたが、
私たちが望むのは、下流の人たちが少しでも徳山村のために、こんなに幸せになれて嬉しいなー、と言って喜んで下さることです。(略)
1987年7月1日 増山たづ子(70歳)

あとがき
私は今、こうして岐阜市上西郷にいる。
増山家に嫁に来て昨年で丁度50年、月日のたつのは早いなー。徳山村を出て2年目になり高圧線の傍らにも少し馴れた。
転居通知に
我が庵は高圧線の下にあり 上を見ずして下で明るく と書いて出した。
人は上を見るに限りなく、下を見るに限りないからなー。
40年前に誰が大事なふるさとがきえてしまうような事を思っただろうか。
人の身の上には、何が起こるか分からん。
何度も書いたが、私は61歳の時にはじめてカメラを手にした。
フィルムも入れ方も分からん者が、「もうこれがなくなってしまうのだなー」と思うと
写しても写しても限りない愛着が湧いてきて、アルバムも500冊になった。
ビルマインパール作戦で行方不明になった夫が帰って来たら、写真だけ残った、大事な故郷を見てどう思うだろうなー。(中略)
 
また、週刊誌などに、私たちが5000万円だとか6000万円平均の保証金を貰ったとか書きたてられているが、
誰がそんなお金を貰ったのだろうなー、と笑いあっている。
中には借金して家を建てた人もいるそうな。
私たちは村におるときはお互いに困ったときは助け合ってきたので本当に困ったということは知らずに過ぎた。
だけど、町に出ると。お水までがお金がかかり、仕事の出来ない人も多く、これからの生活再建や気苦労で病気になる人が多い。
30年前の横山ダム建設のために町に出た人のうち、50過ぎの人で5年生きた人はいなかった、というが分かるような気がする。
町の者は町がふるさとだし、山のものは山がふるさとなのだが、とくに私たちはふるさと徳山村に人一倍強い愛着を持ってきた。
だけどこれも時の流れで仕方がないから、その時その時に与えられた運命の中から少しでも幸せを見つけて、大事なまわりの人まで暗くしないように頑張りたいと思う。(略)
1987年7月7日                   増山たづ子


「大事なまわりの人まで暗くしないように…」やさしい文だ。
素晴らしい語り部の文は、いつまでも引用し聞き続けていたい。
つい引用が長くなってしまった。
また、素晴らしい目線での写真集である。


合掌する少女の写真はこの写真集になかったが、一点一点が切々と訴えてくる。
その一つ。f:id:umiyamabusi:20060309223900j:image
この写真の下のキャプション。

戸入(徳山村大字5の一つ。増山さんの故郷)道場のお別れ会(御供養、1984年10月3日) 福井県鯖江市御本山の管長様もお招きして盛大な御法要をつとめた。
何百年も続いた道場もお廻り様も報恩講もすべての行事が最後になる。
この日大雨でご先祖様もお泣きになったのだろうなー、と皆が泣いた。

 
徳山村揖斐郡にあった。
揖斐郡揖斐川町市場というところに住む後輩の所へ2度訪ねている。
また揖斐川町坂内広瀬というところから講師を招いたこともある。
市場から奥の方に見えたはるかな山脈の中に、あの頃、増山さんは住んでいたのだ。
すぐれた語り部が、大きな仕事を残し…、7日に逝かれた。
                
                         合掌