『ウォーク万葉』の記事(前半部)「出挙の旅に”珠洲”コースー鮑玉に寄せるー」


 日本海に突き出た最大の半島・能登。その先端部に珠洲<すず>がある。
 大伴家持珠洲を訪れたのは天平21年(749)のことであった(日置謙、門脇禎二説に拠る) 珠洲が含まれる能登国は、このころは越中国に併合されており、天平18年(746)に越中守として赴任していた家持が訪れたのである。
 当時、家持は32才だった。

春日神社の歌碑

 珠洲市の中心地飯田町の西にあるのと鉄道珠洲飯田駅」。そこから町に向、歩いて一分もかからないところに春日神社がある。拝殿に進む石段の右手に、能登で五基ある万葉歌碑の一つが立っている。
 珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり 巻17・4027番
 農民に官稲を強制的に貸し付け、秋に3~5割の高利をつけ納入させるのが出挙と言われるものである。家持一行の能登巡行の目的は、この出挙稲の割り当てにあった。
 羽咋気多神社の参拝に始まる長旅を終え、離れゆく能登の海岸線が月光に浮かぶのを見やるとき、家持の胸に去来したものは、どのような感慨だったのであろうか。
 この歌に関して、古くから長浜の浦がどこなのかが、問われてきた。
 七尾市の三室あたりではないか、氷見市から眺めた広い海岸線であろう、珠洲の海岸だ、と諸説入り乱れている。
 長浜はともかくとして、国府に向かって船立ちしたのは、珠洲のどこかの港からであることは間違いがない。
 式内須須神社のある寺家塩津、古代の正倉院があったと見なされている正院、そして、飯田あたりが対象となるところであるが、少し前までは、なだらかな内浦の海岸線が、この春日神社の境内から見渡せた。
 静かな海を漕ぎゆく船の上の家持の幻影に思いを馳せるのも一興であろう。

飯田町

 「すず飯田町」の後ろの田の中に弘法清水がある。南の小高い山が阿弥陀山だ。以前は仏の形をした仏石が産出した。ここからの風光は素晴らしい。山の南に良質の水が湧くところがあり、阿弥陀湯というお風呂屋さんの元湯となっている。
 近くの西勝寺には、大きなタブの木があり、根本に「い(かながしら)佐助」「七五三(しめの)守」と記した墓標が立っている。宗教的雰囲気の漂う落ち着いた一帯である。
 タブは、万葉に歌われるツママではないかとされ、気多神社入らずの森が広く知られているが、町域のタブも落ち着きがある。
 さらに、大運寺には、市指定阿弥陀如来座像、乗光寺には、同初代宮崎寒雉<かんち>作の梵鐘があって、訪ねてみたいところである。
 二・七のつく、月6回の午前中は朝市が開かれているから、巡り合わせによっては、古くからの町と近郊の農村の触れ合う光景と出会えるかも知れない。
 なだらかな内海と、街道町の雰囲気を味わうのであれば、そのまま、正院町まで歩を進めるのもいいだろうし、「珠洲駅」からバスで対照的な木ノ浦に向かうのもいいだろう。

正院町

 家持の出挙の旅と、関わりの深い地と見られるのが、正倉院・あるいは古代の官庁街があったと見なされる正院町である。この町は、ほぼ真北線にもとづく方画地割りを有し、方四町の復元図の試みも行われた。
 須受八幡神社は、以前、長浜八幡といい、前出の家持の歌の「長浜の浦」の響きを有していた。境内に、神事能の舞台があり、能面にまつわる色々の話を伝承する。
 千光寺には、宮崎寒雉の梵鐘があり、高福寺には加賀一向一揆の大坊主波佐谷松岡寺の末裔といわれ、毎年旧地の小松市松岡町に里帰りする蓮如座像がある。西光寺は「へんじゃ参り」と呼ばれる蓮如忌で名高い。
 舘薬師には、多くの板碑群もあり、町はずれには、戦国時代末期に、能登守護畠山、越後上杉、織田信長方の前田利家の意向を受け、諸将が奪い合った正院城の遺構がある。
 船出した家持の後に、次々と見るべき歴史を重ねてきた町である。

(前半終わり)
後半は→『ウオーク万葉』後半