蓮光寺圓谷城燕師が1月4日(火)、88歳で還帰なされた。
先に帰られた坊守さんは、私が教区会副議長を務めていた頃の坊守会会長さんで、その時期に迎えた蓮如上人5百回御遠忌などでは、人々の願いを聞き、精神的な支えになって下された。城燕師は御遠忌に加え、中島町史調査においても頼りきっていた方である。
多羅(タタラ)山、『拾塵記』に紹介されている小仏、蓮能尼の里の中心道場の雰囲気に触れることが出来るため、よく訪ねたものだった。
蓮能尼の手紙が伝わっており、表装して庫裏の欄間に掛けてあったのを、某学者の研究にと乞われ貸したところ、失火により灰燼と化してしまった。かつて消息横掛け軸を飾っていた長押を、そこにあるかのように愛おしむ眼差しで話してくださった姿を忘れることが出来ない。
城燕師がいつもお会いになって下さった座敷に、その長押があり、ご家族としばし思い出を語りあった。
左・鳥越多羅山蓮光寺。 電柱の向こう側の山脈が蓮能尼が育ったと伝える西谷内城。
『拾塵記』蓮如10男 実悟著 母は蓮能尼(1998・平成10年 東本願寺出版部刊『蓮如上人と現代』附資料より)
『中島町史資料編上巻』
拾塵記
御開帳 『中島町史資料編上巻』837頁
『末世目覚草』に、
同年(天保十四年・1843)の八月三十一日より六日間、
今度は正永寺において鳥越蓮光寺の法宝物である「一、
蓮如法主影像壱幅一、六字名号二幅 一、蓮如法主文二通 一、教如法主消息一通」の開扉弘通が行われている。
以上挙げたのは記録に残されているもののみで、この
他にも多くの宝物が人々の目を楽しませ、法悦に至らせ
たものであろう。布教の一方法として当地においても盛
んに出開帳が行われていた時代があったのである。
※正永寺には、有名な二面太子像がある。