蓮能尼の里ー虫ヶ峰太子、遙拝所

市町村史に関わると、同じ能登なのに地域ごとに際立った特色があることに気づく。

中島エリアで驚いた一つに、地域霊山の遙拝所が地域の人々の記憶に残り、語り伝えられていたことがある。

この年になると、1人で山脈に入ることは考えにくい。

そこで、山に入らずとも遙拝所を巡りで充分じゃないか、と思うようになった。

それこそ里山だ。

虫ヶ峰(釶内山)は俊寛伝説、熊野信仰、別所岳との背比べ(弁慶が登場する)、蓮能尼の里など…それこそ「里山」世界に事欠かない。

私が遙拝所、遙拝地だと聞いた調査から30年経った。

もうそのように語られていない地もあるのではないだろうか…?

 

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加茂河原。正面が虫ヶ峰。熊甲二十日祭りでは、この河原を枠旗が舞う。

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加茂河原を巡る枠旗。『図説中島町の歴史と文化(図説中島町史)』(平成7年3月刊)より。

神の来臨 藤津・熊甲神
別伝承では、一漁民が種子島にいた二神に出会い、た
だ人ではないと思って瀬嵐に運んだ。二神はそこから宮
居を定めるため、それぞれ矢を放ち飛んでいった矢の行
方を探し求めた。熊甲神は熊木川を遡って貝田で錨を降
ろし、上町高瀬山(現、市姫社地)に登って見渡してみる
と、加茂淵の岩の上に矢が刺さっているのが見えた、加
茂淵には龍神が住み人々を苦しめていたので、神は征伐
された後は観音となって衆生を済度するようにとの引導
を渡して龍神を退治した。この時の約束に従い神自らが
木を刻んで祀ったのが谷内の観音であるという。貝田の
錨を降ろした地を「錨田」、龍神の血が一面に流れた田
を「血田」といったというように、この神話は地名由来
を語り、龍神退治諌は、絶えず河水が氾濫する土地を、
神が治水事業によって美田に変えていった話と見ること
ができる。また谷内観音の本地が龍神であったとするの
は、水分・白山神の本地の一つである九頭龍権現との
関係を思わせる話となっており、谷内観音は蛇行する熊
木川の治水に効験を有した観音であったことをも窺わせ
る。(『中島町史 資料編上』847頁)

 

 

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横田虫ヶ峰遙拝所 1月8日撮影。正面が虫ヶ峰。

 

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上畠・虫峰山正覚寺

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釶内の地名由来を語る聖徳太子を祀る太子堂(上畠)。

 

聖徳太子

  釶打山(虫ケ峰)の太子として、また伝行基作の太子と
して名高い正覚寺太子像に関しては、八月十四日、鳥越
太子堂跡石碑前庭で聖徳太子供養の勤行が行われる。
 古くから様々な伝説に彩られている太子であるが、近

い時代では次のような伝説がある。


 横見の庄屋佐野太郎左衛門が、暗闇の夜、所用を終え
て家に向かっていると、突然二本の足が目の前にぶら下
がった。ビックリしたものの剛胆な太郎左衛門は脇刺し
でとっさに切りつけたところ、異形の物は大きな叫び声
をあげて能登島方面に逃げていった。岸につないであっ
た千石船で追いかけるが見失ってしまう。翌朝から太郎
左衛門は高熱を出し、八方手を尽くして治療するものの
やせ衰える一方で一向によくならない。万策窮まって陰
陽師に見てもらうと、釶内の真宗正覚寺の仏像を刻んで
飲めば治るという。
 この仏像というのは白壇を材料にした有名な聖徳太子
のことで、住職は仏像を刻んで飲ませる話など聞いた事も
なかったが何分にも人命に関わること、願いを聞いて与え
たところ程なく全快したという。

釶内地区・安泉寺にも太子の縁起が伝えられており、太子
講で拝読される。
《安泉寺太子縁起》
 ソモソモ当檀二安置シ奉ルハ、上宮太子二才ノ尊像ニ

シテ、其本地ヲ尋奉レバ、極楽浄土観音菩薩ノ再来ナリ、

爾ルニ吾朝敏達天皇元年正月朔日御誕生在シニ、イカ

ルユヘニヤ、右ノ御手ヲヒラキ玉フことナシ、御父用命

天皇深ク是ヲ悲シミ玉ヒ、種々ニ医療ヲ尽シ玉フト云ヘ

トモ更ニ其シルシ無リシニ、御歳二才ノ春二月十五日、

大聖世尊入滅ノ日柄ニ当ッテ雪ノハタヘニ紅ノ袴ヲメサ

レ、東方二向ッテ南無仏無仏ト称シ玉フ、其御声宮中

ニ響キ仏舎利ヨリ金色ノ光明ヲ放チ給フニ、天皇ヲ初奉

リ、月卿雲客ニ至ルマテ、驚キ玉ヒテ其ユヘンヲ尋玉フ

ニ、太子ハシメテノ玉フ様、ワレ昔シ唐ニ有テハ南山ノ

慧思禅師ト顕レ、仏法弘通セシニ、臨終ニ至テ仏舎利

ニキリ往生セシカ、又モヤ本朝ニ巨縁フカク、有縁ノ衆

生ヲ済度ノ為ニ、此仏舎利ヲ持来レリトテ、御手ヲヒラ

キテ見セ玉フ、是即吾朝仏法弘通ノ最初ニシテ、無量永

劫ノ初㕝ニ仏名ヲ聞奉ル初ナリ、ヒトヘニ是末世相応ノ

要法、弥陀ノ本願ヲ勧メントテ、自ラ此二才ノ尊像ヲ調

剋マシ〳〵、我ニ有縁ノ衆生ハ、見度モアリ見ラレ度モ

有トノ御相タナリ、故ニ久シク越中禅家ノ国泰寺ニ於テ

結縁シ玉フト云ヘトモ、今又当国有縁ノ御地ニヤ、ユへ

有テ当寺へ御座ヲウツサセ玉ヒテ、シタシク弥陀ノ本願

ヲ弘通シ玉フ尊豫ナレバ、各信心堅固ノ上ヨリ済度利生

ノ□法ヲ□ヒ、称名モロトモ拝礼ヲトゲラリヨ」(読点筆者)。

(『中島町史資料編上巻835~6頁)

 

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能登国三十三観音のたび』(能登ネットワーク刊)より。

虫ヶ峰は4頁書いたが、以下2頁は省略。


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「蟲ヶ峯」2004年3月、町屋おらが在所づくり委員会刊より。