加能作次郎の真宗へ

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志賀町の作家 加能作次郎入試が「再発掘」共通テスト出題「知るlきっかけに」北陸中日新聞1月25日(月)朝刊

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共通テスト 国語 第2問 次の文章は、加能作次郎〈かのうさくじろう〉「羽織と時計」(一九一八年発表)の一部である。…

作次郎なら本多さん

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朝日新聞 この人に聞く 2007年(平成19年)「加能作次郎の会」副会長 本多達郎さん(69)■「作次郎記念館」に期待する役割は?

 

記事の文

志賀町富来出身で、故郷のことを多く書き続けた作家・加能作次郎の本格的な資料展示室が、年内にも「作次郎ふるさと記念館」として同町富来支所(旧富来町役場)に誕生する。
 作次郎の孫の加能干明さん(56)が8月に寄贈した初版本や写真などを中心に約650点を展示する。一般公開によって、作次郎の名は生誕の地に長く残ることになる。「加能作次郎の会」副会長の本多達郎さんに聞いた。

-町立富来図書館にあった作次郎のコーナーが質、量ともに拡充されますが

旧富来町長室がそっくり作次郎の資料室になります。作次郎のファンは全国にいるので、これは朗報。地元生まれの国文学専攻の学生が、卒論に作次郎を取り上げる際にも役に立つに違いありません。
 金沢には泉鏡花徳田秋声室生犀星といった文豪の立派な記念館があり、今までうらやましいと思っていました。「作次郎ふるさと記念館」ができることによって、富来の風土で育った文豪・加能作次郎は忘れられずにすみます。

-作次郎を顕彰する作文コンクール(小学生対象)や文学賞(中高生対象)が志贅町にはある。そんなに悲観的にならずともいいのでは

 今の若い人は、作次郎のことを知らないと思う。私は地元の小学校の教員を長くやっていました。なるべく多くの子どもたちに作次郎を知ってもらおうと、作次郎が書いた童話などを読んであげましたが、彼の書く私小説などは子どもたちには難しい。「作次郎の会」や作文コンクールがあったおかげで何とか残っているのが現状です。

-どこが魅力なのですか

文学者としての、ものを見る目、でしょうか。感性豊かで、その場面の言葉やしぐさを克明に書くことによって、人の気持ちがこちらに伝わってくる。リアリズムの強さ、でしょう。これが徹底して、地元の”良くない”ことも書く。嫌がられる面もあったのです。
それともう一つ、加能文学では浄土真宗の宗教的な面も見逃せません。たとえば、土地の人たちの死に対する考え方、南無阿弥舵仏の教えが、にじみ出るように書かれています…

-加能千明さんが資料を寄贈しましたが

会としては、のどから手が出るほど欲しかったものばかりです。作次郎のことを調べるために、私の家にまで聞きに来る学生がいましたから、今度できる記念館は大きな役割を果たすことになります。ソファやテーブルも置かれ、ゆっくりくつろぎながら作次郎と向き合えるはずです。作次郎にとっても良かったに違いありません。

-最後に、本多さんのおばあさんと作次郎との間に、恋愛があったそうですね。

作次郎は明沿37(1904)年に19歳で中島町(現・中島町)の尋常小学校正教員になります。この時、同僚の女教師だったのが私の祖母の両国す巳。2人の恋愛は小説にも書かれています.。ここからは類推になりますが、作次郎は失恋して、翌年、東京に出ることになるのです。
姉が直接、す巳に聞いた話があって「あのとき結婚出来なかったったことが、東京に出られるきっかけとなり、大変な苦労があったようだけど、立派な文学者になられたと思っとるわね。田舎の小掌校の教師で終わったかも知れんのにね」とあります。
作次郎は硬い、と言われますが、こんな一面も持っていたのです。(闘き手・越村隆二)

ほんだ・たつろう 1938年、志賀町赤崎生まれ。.金沢大学教育学部卒。作次郎の入学した西海小学校の教員などを経て、99年に富来小校長で退職。在職中に子どもたちを指導しながら版画集『加能作次郎の生い立ち』『西海の昔語り』を編集。「加能作次郎の会」副会長。富来郷土史研究会幹事。

 

 

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加能作次郎集』編集 加能作次郎の会 発行所 富来町立図書館 2004年11月13日刊。

よくあることだが、誰でも知っているのでデーターを載せなかったり、自己主張しなくても、と遠慮してデーターを記載しないでいると、あるときから誰一人知る人がいないことが起こる。この本では「加能作次郎の会」メンバーは?が全くわからない。私は本多さんを知っていて、14年前の新聞切り抜きや、かつてブログに書いているので、本多さんがその会の中心メンバーだったことは知っているが、昨年先立たれたので、会の実態などは確かめる術もない。

この本は口絵写真、本文は18作品、加能作次郎年譜の327ページの本で見返しに富来から見える白山の写真と作次郎の文、作次郎生家の見取り図・平面図を載せ、極めて充実した本になっている。

ところが、入試問題の「羽織と時計」が作品を網羅しているはずの年譜に載っていない。この年譜作成者は「加能作次郎の会」メンバーではなく、全体指導と「年譜」作成に関わった、当時、県文学分野で著名な大学教授だった。この本はもう手に入らないようだし、その人の名を知る人もほとんどおいでないだろう。

 

すぐ自分の話に持って行くのが悪い癖なのだが、先週のブログに書いたおやまブックレット『蓮如上人と伝承』のカバーの絵が誰が書いたのかブックレットのどこにも書いてない。前に聞いたときは○○さんですよ、という人がいたが、表紙絵の題材である「西山蓮如堂」という画家が描いたと思うようになるかも知れない。実際に中高の同級生で有名な挿絵画家として活躍している「西のぼる」氏が、「西山の画名か?」と言ったことがある。西山(大乗寺山)の蓮如堂を知っている人はどれほどおいでるだろうか?

もう一つは、かなり後悔しているのだが能登の決定版とでも言うべき本『能登のくにー半島の風土と歴史ー』を、2003年7月7日、すなわち能登空港開港日に合わせて北國新聞社から刊行した。

「編著者 能登のくに刊行会」にしたのだが、27名の執筆者・パネラーを集めて作った本ではあるものの、編者は西山郷史珠洲焼資料館館長7割)、吉岡康暢(国立歴史民俗博物館名誉教授3割)で作ったのである。

二人の名を並べて編にすると出版社は喜ばないだろうと、勝手に忖度してしまい。あたかも何人もで相談しながら作ったかのような「能登のくに刊行会」なる名を付けたのだった。(※一晩経って、どうしてこの組み合わせになったのか?を考えていたら、吉岡氏は、その年の4月から石川県歴史博物館館長に就任なされ、翌年3月に退職なさっておいでたことを思い出した。いろいろあるのは当たり前で、心血注いで次世代に残そうとした成果の、基本部分が伝わればいいのだ)。

 

そういうほろ苦い思い出があるので、「加能作次郎の会」にもすぐ同質の、仕事は残すが、出来るだけ目立ちたくない、を感じたのだ。でも、もし本が図書館に残っているなら、会のメンバー表を添えておくことをおすすめしたい。あっという間にいきさつ的なものは消えてしまう。

真宗と作次郎

本多さんのインタビューの中で、本多さんは、あえて加能文学と浄土真宗を指摘している(※ゴシック部)。

作次郎の奥さんは、年譜に

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とあるように、故郷富来の真宗大谷派浄法寺から迎えている。

富来はほとんどが真宗門徒で、同地出身の戸坂潤、岸壁の母・端野いせ

など、真宗文化・土徳をその人の人生のベースに置かないと、見えてこないところがある。本多さんはそのことを指摘しておいでるのだが、「加能文学の真宗」を書いている人はまだいないようだ。

ついでに、この前のブログ「大栄翔」の北國新聞記事に「追手風・遠藤 穴水後援会事務局幽経一郎さん(59)」が出ているが、この方は浄土真宗本願寺派寺院のご住職さんのはずである。



その他

加能作次郎

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碑文「人は誰でもその生涯の中に一度位自分で自分を幸福に思ふ時期を持つものである」(父の生涯)より。風戸〈ふと〉地内

生家

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「現存する作次郎の生家(富来町風戸〈ふと〉)」『加能作次郎集』Ⅱページより引用

おまけ 

本多達郎先生作 面

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 現在、書斎・臥龍文庫にましましている。

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