大栄翔 孝行、祖父の里・宝立春日野

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卯辰山相撲場で1982年か?。青いチョッキはブラスのユニフォーム。

この写真は、(記憶に間違いがなければ)1982年(昭和57年)第66回全校高校相撲金沢ー卯辰山ー大会に飯田高校の応援に行った応援団・ブラスバンド部員の記念写真である。

その時、私は就職係、野球部、郷土史同好会顧問で、ブラスも生徒会も関係がなかったのに、引率応援に行っている。おそらく前年まで3年間を共に担任したブラスバンド部顧問・佐藤先生に誘われたのだった、と思うが…。

そして、これが団体で卯辰山に向かった最後の応援になったはずだ。

この時の66回大会は、団体・明大中野高校、個人・新宮高校の久島啓太君が優勝した。久島はメチャクチャ強かった。

 

それから2年後、金沢高校・穴水出身の山崎直樹君が個人優勝した。後、大相撲に入り大翔山を名乗る。今の追手風親方である。

 

25日「朝日新聞」朝刊

大栄翔V 母へ一番の贈り物

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この記事は全国区記事だが、

大栄翔が優勝争いのトップを突き進んでいた13日目の北国新聞朝刊に、大栄翔の祖父は珠洲市宝立町春日野出身で若いときに関東へ出た、という記事が載った。

こちらでも、急遽盛り上がっていたのである。

北國新聞25日朝刊

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初場所V 大栄翔支えた能登の力 穴水で夏合宿 「環境恵まれた」

ブログに「能登のうみやまブシ」を名乗っており、名だけだけれども「(能登の歴史と民俗)観光マイスター」であるものとしては、能登・穴水・珠洲と縁のある大栄翔を発信させないわけには、いかない。

珠洲弁で言うと「おれ、春日野(地名)の孫なげぇ!」と地名で出身地をいう極めて近い関係なのだ。

しかも、記事には「30年以上前に亡くなった大栄翔の祖父弘勝さんは飯田高校相撲部出                                                                                                                                                          身。」とあるではないか。

 

このことを調べる前に、かつて、能登の相撲はなぜ強いか?を『北國文華』(2016年春、第67号、北國新聞社)に書いたことがあるので一部を紹介する。

マチュアスポーツの草分けと伝わる高校相撲金沢大会100回記念に書いたもので、その時、遠藤がケガをして休場していたために、タイトルが「能登の暮らしに息づく相撲」へと変わっている。相撲が生活であり生活が相撲的であることを書いた。

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特集 相撲文化の精華 100回刻む高校相撲金沢大会 能登の暮らしに息づく相撲

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飯田高校相撲部ー高西弘勝氏

私は、飯田高校に13年勤務し、90周年の時は珠洲焼資料館館長をしていたためなのだろう、同誌の執筆・編集委員の一人に加えていただいた。100周年の時には実行委員長だったので、様々な角度から校史に関する史・資料を見てきた。

 

高西さんは飯田高校の前身・旧制飯田中学校第13回卒業生(昭和21年3月卒業)である。

戦時中の大変な時の生徒で、この学年は49名しか卒業していない。

 

90周年誌から、相撲に関する話題を見ていくと、

座談会 飯田中学校

亀田(司会) 行事や学校生活の中で、特に印象深かったものは何ですか、
尾尻 私が中学一年に入学した時(15回卒※旧制中は5年制で、高西さんは13回卒なので3年生のはず。優勝時の出場メンバーではないが、その頃の相撲部中核を担っていたのだろう)、相撲部が金石相撲大会で優勝して、飯田町を提灯を掲げながら街頭行進をしたことを覚えております。
橋本 やりましたね。飯田のバス停まで迎えに出て。
慶祐 団体優勝と個人三位でしたね。私も町中が歓喜に包まれたのを覚えております。(P271)

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※金石(当時は金石〈かないわ〉で大会が行われていた、金石相撲とも言った)学生相撲大会団体優勝で飯田町を凱旋行進(昭和16年)。橋は若山川に架かる吾妻橋。P455

 

回想文 仲間みんなの青春 昭和十六年卒(八回) 橋元昌夫

(※高西さんが中学へ入る直前の飯中の雰囲気である。執筆者橋元さんは輪島高校長をお勤めになった方)
飯中五か年の思い出は、人それぞれにたくさんあるとは思うが、金石相撲大会に向け、五年生が一致して青春の熱い血をたぎらせたあの応援活動は、私達みんなの共通の思い出である。歴史に残る『九十周年記念史』の一頁を与えられた光栄に感謝しながら、以下回想してみたい。

私達が三年と四年生の時、二年連続してこの金石大会で優勝する快挙を成し遂げた飯中は各校から追われる立場となった。しかし、二年連続の優勝でも大変な壮挙であるのに、更に連続優勝など口で言うほど簡単なことではない。そのときの選手達は強く、ある程度自信もあったが、五年生としては最後のチャンス。せめて応援活動でも頑張って何とか勝利をものにしたいと願ったのも当然のことである。
みんなでいろいろ対策を練った結果、この大会だけの応援歌を作ることと檄を書くことから始めることにした。応援歌は従来から伝統的にいくつか使われていたが、三連覇を目前にした得難い機会ということで、三連覇の文字を入れることに重要な意義があった。

記憶はあいまいだが、その一節は「我に残せし先輩の 二年連覇の栄冠を 我らが頭上燦然と 藤の香匂う三連勝 いざ征け立ちて戦え」というようなものだった。
体育館の壁に掲示する檄は国語科の狩野先生の指導を受けながら、簡潔で力強いものに仕上がった。また相撲を指導された酒井先生から「選手だけに練習させるのでは気合が入らない。五年生全員がまわしをかいて土俵の周りを引き締めろ。」と言われた。


土俵上の真っ黒に日焼けした筋骨逞しい選手と、それを取り囲んでいる細い痩せた男たちの取り合わせは何とも奇妙なものだったが、交替でまわしをかいて激励に努めた。

こうして応援も次第に熱を帯びて来たので、金沢まで直接応援に行きたいと学校へ申し入れた。交渉相手はどの先生だったか忘れたが、結論は前例が無いから駄目だと断られた。しかし、私達の再三にわたるお願いと、今年は三連覇がかかった特殊な場合という事情が配慮されたのか「ブラスバンドとして参加するなら認めてもよい。」という提案があった。五年生だけでブラスバンドを編成するのは大変難しい問題だったが、三連覇をこの目で見届けたい一心で敢然と取り組んだ。

初めて楽器を手にする者が殆どで、本当にまともな音が出るのか心配だったが、これも五年生の意地、三連覇への執念の力で克服し、大会までには何とか合奏も出来るようになった。ただ曲目は、行進用の君が代行進曲と校歌の二つに絞らざるを得なかった。

こうして臨んだ相撲大会であったが、私達の努力にもかかわらず、戦い我に利あらず空しく敗退してしまった。帰りは電車が満員で、金石街道を金沢まで歩いて行くしかなかった。そのときの楽器の重さと敗戦の心の重さは筆舌に尽くしがたいものだった.、

しかし青春の一時期、無理もいろいろあったが悔いのない飯中での五年間を送った第八回生は幸せだった。こんな楽しいチャンスを設けて下さった先輩方に心から御礼を申し上げたい、この素晴らしい青春の鼓動は、私達八回生の心から永久に消えることはないだろう。

 

12回4年卒業 三杯恒夫
一年の時の想い出としては、6月、金石の学生相撲大会での団体優勝に狂喜乱舞したこと。

 

飯中の優勝年

1938年(24回大会)

1939年(25回)

1941年(27回)

1943年(29回)

1944年、1955年 戦争のため中止

1948年(32回)飯田高校         

※ちなみに三連覇ならずの年の優勝は、氷見中だった。