説教から民話ー千浦又次、本多先生と『能登早春紀行』(昭和58年、森崎和江著)

真宗文化論の御説教から民話への流れの中で、異質なものに白比丘尼伝承がある。なぜ、それを取り上げているのかを書いている時、さんにょもんなどまとめた本の紹介があればいいと思い、また。猿鬼の書写本翻刻があったはずだと探すが見つからない。

何度も何度も書棚を目で追っていると、先月27日に書いた本多さんの指導した版画集のなかで見当たらなかった「千ノ浦又次」が出てきた。

直接関係はないが、書棚にあった『能登早春紀行』(森崎和江著、花曜社、昭和58年8月刊)の目次を開くと、「第四章千浦の又次 富来町赤崎」とある。

読んでいくと湖月館・畑中幸子夫人、清水隆久さん、本多先生、(村松)標左衛門などが登場する。標左衛門は藩政期の人物だが、その他は懐かしい方々だ。

森崎さんは本多さんの家を訪ねていろいろ話をなさっており、私が訪ねたときと、同じ囲炉裏の様子などが描かれている。

ちょうど、版画集「又次」が出来て間もなくのころ。

 「千浦又次」の最後の部分は以下。以下版画集だけでなく、劇にしておいでたことをこの文で知ることができた。教師の鏡、よく使われる言葉だが、まさに本多さんは鏡だったのだ。

次々に今まで知らなかったことを知る。不思議な年ごろだ、としみじみ思う・・・。

 

「ニシン漬けをベン潰けといいます。北海道で覚えたのかもしれませんね。昔、北海道まで船が通っていましたから。大根の貝やきもこのあたりの料理で、おいしいですね。

 大根をホタテ貝の大ぎな殻の中で、フグの子の塩漬けや小糠いわしとかのイシリでたいたものですけど。ホタテ貝も北海道から持って来たものです」
 座敷には北海道の熊の毛皮が敷いてある。北海道は近いのだ。
 千浦の又次の話を聞いた。版画の話も。
 この又次を、子どもたちは版画に描いてたのしんだぽかりでなく、児童劇にして地元の人びとに演じてみせたのだった。
 それぞれの場で庶民が伝えた文化を噛みしめている人に出会うのはたのしい。

 本多先生にもさまざまな仲間がおられるのだろう、アトリエには船員の航路を思わせるような世界各地の仮面や、自作の面、製作中の油絵が、次作の児童劇の脚本とともに部屋いっばいに雪もようの光を受けていた。  

能登早春紀行』 69頁

 

本多さんが43歳頃の話。

そうと知った時、私が教員を辞めた年が43歳だったことと重なり、

あらためてしみじみとした気分になっている。

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筆者がもう一度赤崎の夕景と町並みを見たい・・・と訪ねた赤崎ー左が海・夕陽。

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