22日八組坊守会のため、柳田へ行った。
少し余裕を持って
「弁慶石」がどうなっているか訪ねた。
ススキ・月ー♪すすき葉末にひかるは露か…(伊太郎旅歌唄)
このあと話す予定の
わずかなる庭の小草の白露を求めて宿る秋の夜の月(西行)、この歌をこよなく好んでおられたという金子大栄師のことなどが、風となってこころを通り過ぎていく。
弁慶石ーこの五十里葦谷地区の奥に弁慶谷内というところがあった。そこには大きな石があって水路を引く妨げになっていた。あるとき弁慶が通りかかり、その石を脇によけてくれた。その出来事が地名の言われとなり、弁慶石は水の守り神になっていたという。雨乞い石だったのだろう。それがダム建設のために沈んでしまうため、この場所に移して語り伝えていくことにしたのである。
碑文にはこのようなことが書いてある。
ーが、いつこの碑ができ、碑文をどなたが書いたのかが、どこにも書いてない。
碑文を書いたのは府玻美智子さんである。
わたしは民俗、伝説などを調べたり書いたりしており、府玻さんは巡り巡っての教え子でもあって、途中から協力させて頂いた。
当時はやませき湖を一周することが出来、弁慶谷内へ行く道もあったのだが、今はこの舗装道路、写真に写っているところまで行くことが出来、
その先は進入禁止になっている。
そこに行って「弁慶石は?」と思った。目的が弁慶石だったから、車を降りてぶらぶらしながら写真の碑に会うことが出来た。
誰がこの碑を書いたのか?いつ?
もっと言えば弁慶石がこのようなところにあることさえ、もう知る人がいないのではないか…。そんなことを考えさせる時の流れだ。
帰って調べてみると、ダムは2010年8月に完成している。
10年前の出来事だったのだ。
府玻さんはお元気で活躍なさっているようだ。
なお「地消地産文化情報誌 能登」創刊号から35号まで「伝説の風景」を連載した。
それをやめてからこの前届いた41号で6号1年半経過した。
それさえーズーッと昔の思い出になっている。
弁慶伝説、弁慶石は35回のうち、「別所比咩神と弁慶石」(第8号)で取り上げた。
この五十里弁慶谷内の他に、しっかり伝えなければならない弁慶石に、
これからは思い立ったとき、一人ぶらりと伝説の風景をたずねたい。