とも同行の順拝・たび「宗祖聖人御旧跡巡拝」―豊四郎順拝①

『とも同行の真宗文化』に、平成3年から30年間に書いたものをある程度まとめた。その結果から残されている問題がある程度見えてきた。

出版関係者の知人は少ないのだが、この本に関心を示してくれた方があり、何か一緒に考えようという雰囲気になりつつある。

 

一つは、ここに書いたものを、整理の仕方によってはよりポピュラーな文化論へ展開できるのではないかと考えてはいるが、それは時間などに余裕があればの話で・・・、

これも含め、私は今まで、人が触れていない分野やフィールドで問うたり、調べて来たつもりでいるが、未だ残されているものの中に、30年前に問題にしようとしていたことが、そのまま残されているということがクッキリしてきた。

それはお同行・豊四郎の旅で、巡拝地を『蓮如真宗行事』に一覧表にしていたつもりでいたのが、今度、この本をまとめる際に見直したら、

表にして巡った寺院を書いたのは、229ヶ寺中蓮如上人由緒寺院の57ヶ寺だけだったことに気づいたのである。

しかもこの原本の所在を知り、コピーを持っているのはどうも私だけになったようなので、なんらかの形に残しておかないと、そういうものがあっただけの物語になってしまう。

 

実は、豊四郎巡拝帳を用いて一冊の本にしようと思った事がないわけではなく、時間さえあればあるシリーズの本になっていた(かも知れない)のである。

その話は、30年前「節談説教の風土」を書いた時、編集担当の内山直三さんと意気投合し、「月刊平凡百科」に連載し、それをまとめて平凡社選書の一冊にする、という話だった。

その時は、教師を辞め住職になり、風邪の熱が下がらない程度で入院していたつもりでいた父からは、住職の心構えなどを聞く機会もなく、内山さんとの話も夢物語だったのだけど、

書くとすると真宗門徒の順拝と決めていた。

 

それが、今度の一応のまとめによってクッキリ浮かんできて、その出版関係者さんに、とも同行の順拝・旅をまとめるつもりだと話した。

準備するものがあれば用意するつもりだとも言ってある。

 

とも同行の旅は、葬・お年忌と聞法・講を結ぶ世界であり、とも同行にとって、最も楽しい仏法世界の一つであるはずだ。

また、多くの由緒寺院を知る事は、少子化・過疎地帯に多い真宗寺庵が、風土と共に今まで生きてきた自坊を、由緒面から見直すきっかけにもなると思うし、あらためて地域を知る核になるはずだ。

 

今まで50ヶ寺の巡拝地をブログ上に取り上げたが、その続きを粛々と進めていくつもり。カテゴリーも今後については、「とも同行」で考えて行く。

 

まず「豊四郎巡拝帳」との出会いを過去のブログから。 

2016-09-02の記事

「宗祖聖人御旧跡巡拝」(文化5年ー1808、豊四郎巡拝帳)其1ー経過

昭和50年代終わり頃『鹿島町史』の民俗編を担当した。
お出で祭りには全コースついて歩き、講が盛んな地区で仏事も随分見学したり調査させてもらった。
 担当は年中行事、人生の葬制、民間信仰などで、400字詰め原稿用紙180枚(72000字)程書いた。通史民俗編が出版されたのが1984年(昭和59年)、私が37歳の時である。

 その時、扱えなかった資料も相当あり、その一つに「豊四郎巡拝帳」があった。
 持ち主の家を訪ね、巡拝帳をお借りしたのだったかお返しにうかがったのだったろうか、ご当主とお話ししたり、箪笥の上に巡拝帳があったことは覚えているが、その他については記憶がない。
 その時は考えていたかどうか、この巡拝の様子を見ると、妙好人・豊四郎だ。
町史編纂室で巡拝帳のコピーを取ってもらい、そのコピーがある。
町史事務局長をなさっていた桜井さんが、仕事の合間にその巡拝帳を整理してくださっていた。町史には反映されなかったが、一向一揆500年を記念して出した『蓮如さんー門徒が語る蓮如伝承集成ー』にその成果も活かさせていただいた。
 町史刊行後4年後の1988年(昭和63年)のことである。
 以下がその時の文と、巡拝地図である。

久乃木村豊四郎の巡拝

「抑当年(文明五年・1473)より、ことのほか、加州・能登越中・両三ケ国のあひだより、道俗男女、群集をなして」(お文・第一帖の五)吉崎の蓮如のもとに集まり、その数いく千万とも知らぬといわれる盛況を呈した。これに対し蓮如上人は参詣を禁ずるが、参詣人に頼っていた多屋衆の動きもあって徹底されず、同年関東布教に旅立った時は、井波の瑞泉寺で身動きもできず、死者さえでる有様であったという。それでも蓮如の時代に生きた人々は、蓮如の教えに親しく接することができた。
 戦乱の世が終わり、余裕が出てきた頃、寺檀制度を始めとする宗教界の再編成が行われ、宗教的雰囲気の盛り上がりの中で、西国三十三観音札所が一国に一つずつ作られるように、巡礼が流行となっていく。
 その頃、門徒の人々も、直接出会うことが出きなかった祖師聖人・蓮如上人の足跡を尋ね、自らの信を問う旅に出かけるようになった。加能の地でも文化・文政にかけてのいくつかの巡拝記録が残されている。
 そのうちの一人に、文化五年(一八0八)から同七年にかけて、出羽の国から讃岐の国まで足を伸ばし、実に二三一ケ寺の真宗旧跡を旅した、鹿島郡久乃木村豊四郎がいた。
 彼が巡拝で出会った蓮如さん関係の法宝物を一覧することによって、その様子の一端を眺めてみよう。豊四郎の巡拝で集印したものは「宗祖聖人御旧跡巡拝」(鹿島町高柳千代吉家蔵)としてまとめられており、次のような書式で納められている。

祖師蓮師蓮座之御影從
蓮如上人御免其外霊宝
畧之
 閏六月朔日 加州金沢
      長徳寺□(角印)

 内訳は祖師(親鸞)関係七十二ケ寺、二十四輩ならびに弟子関係五十三ケ寺、御坊および他の真宗本山関係四十ケ寺、覚如関係十ケ寺、教如五ケ寺、如信四ケ寺、聖徳太子四ケ寺、その他十六ケ寺、蓮如関係五十七ケ寺(弟子三ケ寺を含む)である(幾つも由緒を兼ねている寺院がある為、総計は巡った寺院数を越える)。(西山郷史)
蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承ー』加能民俗の会編集、橋本確文堂企画出版室 1988年10月25日刊

巡拝帳のその後

蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』』の文は、その後1990年(平成2年)に刊行した『蓮如真宗行事』木耳社刊、その再版である『蓮如真宗行寺ー能登の宗教民俗ー』(1998・平成10年)刊にほぼ同文と蓮如上人関係巡拝寺、地図を載せた。
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 とはいえ、もう既に18年も経っている。※2020年では22年。
 その事より、現物の写真あるいはコピーを転載したわけではないので、どういうものなのか知っている方がほとんどいないという現実がある。
 それで、ブログを使って公にしなくてはと思いついたのだが、写真を取り込んだ書物がある。
 『蓮如上人と行事』(1998年初版、真宗大谷派金沢別院刊)で、
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そこでは、次のように書いた。
 「そのころ、旅のついでに四国巡礼、お伊勢参り善光寺と有名寺社へ足を延ばす人々が多かった中にあって、豊四郎や、寛政三年(一七九一)から翌年にかけて、八十一ヶ寺を巡拝した越中礪波郡久戸(ひさと)村の一門徒の旅も、真宗関係由緒地以外には全く歩みを止めない旅であった。
 この徹底ぶりは、門徒の旅がまさしく「報謝」の旅であり、信を深め・確かめる道程であったからにほかならない。 
 豊四郎が訪ねたのは、祖師関係七十二カ所(以下、カ所省略)、二十四輩及び弟子関係五十三、如信上人四、覚如上人十、蓮師五十七、教如上人五、聖徳太子四、真宗本山・御坊四十、その他十六で、出羽国(秋田・山形県)から讃岐国香川県)にかけての由緒地である(複数人を兼ねる由緒地があるため、巡った由緒地と総数は一致しない)。これらの寺院や民家では、法宝物や由緒を筆で記したり、版木で刷ったものを巡拝者に渡していた。
 版木の一例を挙げると、「当寺往昔者為台徒之精舎 文明之頃中古上人 浴温泉之砌 回心而為専修門人 蓮如上人御旧跡 加州山中無量山寿教寺  霊宝多之略」(振り仮名は筆者)のようになっており、書式はほぼ一定である。
 ほとんど擦り減ってしまった版木も用いられており、いかに多くの人々が先師を偲ぶ旅に出向いていたかが想像される。
豊四郎たちを突き動かしたのは、おそらく、三十五歳で越後流罪になった祖師を求めて越後に向かった上人の姿であり、足に食い込んだ草鞋の紐の跡が一生消えなかったほど歩かれた、上人の御苦労であったのであろう。
造悪不善(ぞうまくふぜん)の我が身が、唯一救われる道を、身を粉にして届けようとなさった先人。その苦労を思えば、お礼を遂げに向かわずにはおられない。遺品が残り、残り香(が)漂う由緒地へ、矢も盾もたまらずに出掛ける旅だったのではないだろうか。
  私も豊四郎の巡拝帳の写しを頼りに、何カ所かを訪ねたことがある。鹿の子の御影を有し、蓮如堂が重要な場所を占める石山寺では、「こういう品があったのですか…」と感心され、豊四郎が訪ねた最北地である出羽のお寺からは、七尾から出羽に出向いてお寺を建てたので七尾姓を名乗っています、との便りが届いた。」

※この方とは、後に全国正副議長会で本山(東本願寺)へ行くことがあった.その時、七尾姓のこの方も奥羽教区の議長さんだったかで来ておられ、お目にかかることがあった。
山の方にお寺(巡拝帳では「羽州由利郡羽根川・正覚寺」)があり火災にあって法物類も焼失。その後、町域にお寺を移しておられるとのことで、私の本で昔のお寺が紹介されており、何か分からないかと連絡した、とのことだった。この出来事も十六年ほど昔の出来事。


 少なくとも三十年以上も経過したコピーなので、ここで確かめられることは有り難いことである。
 しかも、鹿島町史のころに、何枚もの版木版もすべて読んである。
コピーとそれを照らし合わせる作業を二日ほどやったのだが、
コピーに残っていないものが四カ寺ある。
私の整理上のNoで、第9番山田光教寺、10番金沢長徳寺、13番、228番。
○13番
加州 
 金沢 
 大桑善福寺
  辰閏 六月二日 当番正伝寺

これは大桑斉先生のお寺。
10組真宗講座で講師としておいでになった時か、別の機会にお渡ししたものと思う。
コピー機などは公共機関にしかない頃で、余裕があれば各由緒寺院に、200年頃前には、巡拝者に対してこのような記念をお渡ししておいでたのですよ、とお送りしておきたいくらいだったのである。
そう思っていたのも、石山寺で本当に驚かれたことが記憶に残っているからである。担当の方が、朱印は宝珠印を用いていますねぇ、と感嘆なさり、私もすごく驚いた。
それで『蓮如上人と伝承』には、石山寺の写真を用いた。
228番は
 福島城下 
  二十四輩 明教御坊 遺弟
   康善寺
とあるもので、これは単にコピー洩れのようだ。
9、10番は分からない。

 

 2019年4月7日の記事

真宗文化資料「宗祖聖人御旧跡巡拝」(久乃木豊四郎巡拝帳、文化五年・1808~)全231ヶ寺を、このブログにでも残しておかなければ、私が作業が出来なくなる時点で、存在そのものさえ分からなくなってしまうので、2016年頃から書き始めた。

10月頃には『妙好人千代尼』執筆のため、資料集めなど中心が千代尼に行き、真宗門徒巡拝帳の白眉「豊四郎巡拝帳」の紹介が途切れた。

 

やはり、伝えなくてはならない。

経過紹介の記事を載せる。2016年(平成28年)10月24日に書いたものである。

「宗祖聖人御旧跡巡拝」(久乃木豊四郎巡拝帳、文化五年・1808~)全231ヶ寺

文化5年豊四郎巡拝帳をこのブログに紹介しているのだが、二カ寺ほどコピーをお渡ししたため、手元に無いものや、終わりの方が折れ重なっていてはっきりしないものがあるので思い切って9月26日(2016年)に豊四郎子孫家へお寄りした。
鹿島町史」通史民俗編で「年中行事と宗教生活の諸相」と題して400字詰め原稿用紙約180枚書いて出版されたのが昭和59年のこと。
その時に、資料として届けられたものなので、少なくとも33年(2016年)は経っている。
今、原本と対応させておかないと、もう機会がないだろう。
10月20日にお借りしてきた。
私の調査原則は、持ち主家で書き写すか、写真を撮ることにしており、借りはしないのだが、
この巡拝帳は、前のコピーと対応させるにしろ、写真を撮るにしろ量が多すぎる。
それで、25日までお借りすることにした。
御当主は、90を越えておられ、この巡拝帳が町史編纂室で整理されたことになった由来などをはっきり覚えておいでになり、私が『蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承』に書いた文のコピーもお持ちになっておいでた。
それで、スムーズに話が進み、今、整理の最中である。
今まで、豊四郎を「とよしろう」と読み、トヨシロウジュンパイチョウと言っていたのだが
御当主の話だと、屋号を「ブンシロウ」と言うのだそうだ。
ということはトヨシロウでは無くブンシロウとしなくてはならない。
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※25日にお返ししてきた。
巡拝帳を間に、ご夫婦との記念写真を撮った。
いい写真になった。
お送りしたら、10歳ほど若く写っている、とのお返事をいただいた。
いい笑顔ですね、とこちらも声が弾んだ。

 ※2019年(平成31年)4月7日(日)追記

昨年「10月14日(日)石動山秋のつどい」の折、鹿島町史時代、

町史担当の急がしい中で「巡拝帳」の翻刻をして下さった桜井憲弘さんと久しぶりにお会いした。

「桜井さんが読んでくださったおかげで、豊四郎巡拝帳が知られることになった(桜井さんの業績を前面に出さないまま・・・)」と長年思っていたことをいって感謝すると、桜井さんは「西山さんが各所で書いてくれなかったら、巡拝帳は表に出なかった(西山さんのおかげです)。」とおっしゃった。

そういう見方も出来るのか?とホッとした。

 そして、内山さんとの胸の中での約束 2017年5月5日の記事

『大系音と映像と文字による日本歴史と芸能 第5巻 民衆宗教の展開 踊る人々』「節談説教の風土」(平凡社)を書いた時の編集担当が内山直三さんだった。
あの年、1991年(平成3)の2月3日に内山さんから原稿依頼があった。
それから10日後の13日に、父は、中学校時代の同級生が経営している七尾の病院に検査入院に入った。
風邪(?)の熱が下がらなかったためである。
14日夜、説教調査・聴き取り。
15~17日ソフトテニスの県代表になったチームを引率し、車で新潟上越市へ。
その前に病院へ寄って父の症状を聞いたところ、6ヶ月ぐらいの入院が必要なのではないかのこと。
新潟にいる間に、教員を辞めなければならないのではないかァ、と考えていた。
そして、19日、本堂で阿弥陀さまと語り合いながら、退職することを決意した。

それからは、学校と「春勧化」の行事をこなしながら、
誰の迷惑にもならない時期に
退職願いを出そう…ということだけを考えていたような気がする。

人事がいつから動き出すかを知り合いの校長に聞いたところ、
3月上旬とのことで、28日に県教委に退職願いを提出した。

そのようなバタバタが続く中で、
3月5日に400字詰め原稿用紙40枚を書き上げ
内山さんに送った。
原稿書きの方は別の気力が働いていたのだろう。
あるいは、
モヤモヤとした思いを吹っ切るようなつもりで書いていたのかも知れない。

3月14日夕方、内山さんから電話が入った。
原稿に対するお褒めの言葉があった。
「ところどころに穴開けて…」のところでは、
つい笑ってしまいました。とおっしゃた。

このような細かいところを覚えているのは、
お電話を受け取った時は、

まさに
まもなく父の通夜が始まろうとしていた時だったからである。

「…つい、笑ってしまいました。」
「有り難うございます…。
父が亡くなり、今から通夜ですので、この話はまた後ほど…」
と電話を切ったのだが、
あの時の内山さんの
笑い声からお悔やみへと、
その時の、戸惑った声が耳に残っている。

少し前の3月9日(土曜日)に病院に寄ったとき、
父は「家へ帰るぞ」と、
動かない体を動かそうとした。
11日月曜日、朝6時、
「様子がおかしい」と病院にいる母から電話が入り、
雪道を走らせて七尾に着いたときは、既に息を引き取っていたのだった。

「家へ帰るぞ」の言葉通り、
この世での生を終え、父は家路についた。
 
その後、内山さんとは一度東京で会っている。
その時、僕が編集した本ですと、くださったのが『猿曳き参上』だった。
もう一冊下さったはずだが、もうどの本だったか分からない。
平凡社の本を点検していくと思い出すかも知れないが…。
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内山編集者が手がけた本。

その時、内山さんは、
しきりに「平凡社選書」からの出版を勧めてくださった。
「月刊百科」に連載し、それをまとめる形で一冊にしていくのだという。

新米僧侶で、『中島町史』なども抱えており、
その話しを具体化するような気分も、時間的余裕もなかった。
ただ、選書にするなら、やってみたいイメージは持っていた。
江戸時代に行われていた、真宗由緒寺院巡りを、現代に追体験するというものである。

内山さんとは、その時一度会ったきりだ。

柔らかな物腰で、誠実さあふれる話し方をなさる人だった。
ところが、まもなく、病気で亡くなられたとの話しが伝わってきた。

あの頃の思い出を胸に、
真宗由緒寺院の旅」もいい、
と思い始めている。