「宗祖聖人御旧跡巡拝」(文化五年-1808、豊四郎巡拝帳)其1―経緯

昭和50年代終わり頃『鹿島町史』の民俗編を担当した。
お出で祭りには全コースついて歩き、講が盛んな地区で仏事も随分見学したり調査させてもらった。
 担当は年中行事、人生の葬制、民間信仰などで、400字詰め原稿用紙180枚(72000字)程書いた。通史民俗編が出版されたのが1984年(昭和59年)、私が37歳の時である。

 その時、扱えなかった資料も相当あり、その一つに「豊四郎巡拝帳」があった。
 持ち主の家を訪ね、巡拝帳をお借りしたのだったかお返しにうかがったのだったろうか、ご当主とお話ししたり、箪笥の上に巡拝帳があったことは覚えているが、その他については記憶がない。
 その時は考えていたかどうか、この巡拝の様子を見ると、妙好人・豊四郎だ。
町史編纂室で巡拝帳のコピーを取ってもらい、そのコピーがある。
町史事務局長をなさっていた桜井さんが、仕事の合間にその巡拝帳を整理してくださっっていた。町史には反映されなかったが、一向一揆500年を記念して出した『蓮如さんー門徒が語る蓮如伝承集成ー』にその成果も活かさせていただいた。
 町史刊行後4年後の1988年(昭和63年)のことである。
 以下がその時の文と、巡拝地図である。

久乃木村豊四郎の巡拝

「抑当年(文明五年・1473)より、ことのほか、加州・能登越中・両三ケ国のあひだより、道俗男女、群集をなして」(お文・第一帖の五)吉崎の蓮如のもとに集まり、その数いく千万とも知らぬといわれる盛況を晃した。これに対し蓮如上人は参詣を禁ずるが、参詣人に頼っていた多屋衆の動きもあって徹底されず、同年関東布教に旅立った時は、井波の瑞泉寺で身動きもできず、死者さえでる有様であったという。それでも蓮如の時代に生きた人々は、蓮如の教えに親しく接することができた。
 戦乱の世が終わり、余裕が出てきた頃、寺檀制度を始めとする宗教界の再編成が行われ、宗教的雰囲気の盛り上がりの中で、西国三十三観音札所が一国に一つずつ作られるように、巡礼が流行となっていく。
 その頃、門徒の人々も、直接出会うことが出きなかった祖師聖人・蓮如上人の足跡を尋ね、自らの信を問う旅に出かけるようになった。加能の地でも文化・文政にかけてのいくつかの巡拝記録が残されている。
 そのうちの一人に、文化五年(一八0八)から同七年にかけて、出羽の国から讃岐の国まで足を伸ばし、実に二三一ケ寺の真宗旧跡を旅した、鹿島郡久乃木村豊四郎がいた。
 彼が巡拝で出会った蓮如さん関係の法宝物を一覧することによって、その様子の一端を眺めてみよう。豊四郎の巡拝で集印したものは「宗祖聖人御旧跡巡拝」(鹿島町高柳千代吉家蔵)としてまとめられており、次のような書式で納められている。

祖師蓮師蓮座之御影從
蓮如上人御免其外霊宝
畧之
 閏六月朔日 加州金沢
      長徳寺□(角印)

 内訳は祖師(親鸞)関係七ニケ寺、二十四輩ならぴに弟子関係五三ケ寺、御坊および他の真宗本山関係四〇ケ寺、覚如関係一〇ケ寺、教如五ケ寺、如信四ケ寺、聖徳太子四ケ寺、その他一六ケ寺、蓮如関係五七ケ寺(弟子三ケ寺を含む)である(幾つも由緒を兼ねている寺院がある為、総計は巡った寺院数を越える)。(西山郷史)
蓮如さんー門徒が語る蓮如上人伝承ー』加能民俗の会編集、橋本確文堂企画出版室 1988年10月25日刊

巡拝帳のその後

蓮如さん』の文は、その後1990年(平成2年)に刊行した『蓮如真宗行事』木耳社刊、その再版である『蓮如真宗行寺ー能登の宗教民俗ー』(1998・平成10年)刊にほぼ同文と蓮如上人関係巡拝寺、地図を載せた。
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 とはいえ、もう既に18年も経っている。
 その事より、現物の写真あるいはコピーを転載したわけではないので、どういうものなのか知っている方がほとんどいないという現実がある。
 それで、ブログを使って公にしなくてはと思いついたのだが、写真を取り込んだ書物がある。
 『蓮如上人と行事』(1998年初版、真宗大谷派金沢別院刊)で、
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そこでは、次のように書いた。
 「そのころ、旅のついでに四国巡礼、お伊勢参り善光寺と有名寺社へ足を延ばす人々が多かった中にあって、豊四郎や、寛政三年(一七九一)から翌年にかけて、八一ヶ寺を巡拝した越中礪波郡久戸(ひさと)村の一門徒の旅も、真宗関係由緒地以外には全く歩みを止めない旅であった。
 この徹底ぶりは、門徒の旅がまさしく「報謝」の旅であり、信を深め・確かめる道程であったからにほかならない。 
 豊四郎が訪ねたのは、祖師関係七二カ所(以下、カ所省略)、二十四輩及び弟子関係五三、如信上人四、覚如上人一〇、蓮師五七、教如上人五、聖徳太子四、真宗本山・御坊四〇、その他一六で、出羽国(秋田・山形県)から讃岐国香川県)にかけての由緒地である(複数人を兼ねる由緒地があるため、巡った由緒地と総数は一致しない)。これらの寺院や民家では、法宝物や由緒を筆で記したり、版木で刷ったものを巡拝者に渡していた。
 版木の一例を挙げると、「当寺往昔者為台徒之精舎 文明之頃中古上人 浴温泉之砌 回心而為専修門人 蓮如上人御旧跡 加州山中無量山寿教寺  霊宝多之略」(振り仮名は筆者)のようになっており、書式はほぼ一定である。
 ほとんど擦り減ってしまった版木も用いられており、いかに多くの人々が先師を偲ぶ旅に出向いていたかが想像される。
豊四郎たちを突き動かしたのは、おそらく、三五歳で越後流罪になった祖師を求めて越後に向かった上人の姿であり、足に食い込んだ草鞋の紐の跡が一生消えなかったほど歩かれた、上人の御苦労であったのであろう。
造悪不善(ぞうまくふぜん)の我が身が、唯一救われる道を、身を粉にして届けようとなさった先人。その苦労を思えば、お礼を遂げに向かわずにはおられない。遺品が残り、残り香(が)漂う由緒地へ、矢も盾もたまらずに出掛ける旅だったのではないだろうか。
  私も豊四郎の巡拝帳の写しを頼りに、何カ所かを訪ねたことがある。鹿の子の御影を有し、蓮如堂が重要な場所を占める三井寺では、「こういう品があったのですか…」と感心され、豊四郎が訪ねた最北地である出羽のお寺からは、七尾から出羽に出向いてお寺を建てたので七尾姓を名乗っています、との便りが届いた。」

※この方とは、後に全国正副議長会で本山(東本願寺)へ行くことがあった.その時、七尾姓のこの方も奥羽教区の議長さんだったかで来ておられ、お目にかかることがあった。
山の方にお寺(巡拝帳では「羽州由利郡羽根川・正覚寺」)があり火災にあって法物類も焼失。その後、町域にお寺を移しておられるとのことで、私の本で昔のお寺が紹介されており、何か分からないかと連絡した、とのことだった。この出来事も16年ほど昔の出来事。


 少なくとも30年以上も経過したコピーなので、ここで確かめられることは有り難いことである。
 しかも、鹿島町史のころに、何枚もの版木版もすべて読んである。
コピーとそれを照らし合わせる作業を2日ほどやったのだが、
コピーに残っていないものが4カ寺ある。
私の整理上のNoで、第9番山田光教寺、10番金沢長徳寺、13番、228番。
○13番
加州 
 金沢 
 大桑善福寺
  辰閏 六月二日 当番正伝寺

これは大桑斉先生のお寺。
10組真宗講座で講師としておいでになった時か、別の機会にお渡ししたものと思う。
コピー機などは公共機関にしかない頃で、余裕があれば各由緒寺院に、200年頃前には、巡拝者に対してこのような記念をお渡ししておいでたのですよ、とお送りしておきたいくらいだったのである。
そう思っていたのも、石山寺で本当に驚かれたことが記憶に残っているからである。担当の方が、朱印は宝珠印を用いていますねぇ、と感嘆なさり、私もすごく驚いた。
それで『蓮如上人と伝承』には、石山寺の写真を用いた。
228番は
 福島城下 
  二十四輩 明教御坊 遺弟
   康善寺
とあるもので、これは単にコピー洩れのようだ。
9、10番は分からない。