今本屋・橋本左輔さんー『末世目覚草』ー中島町史、石塔の里
私が関わった市町村史は、珠洲、能登町、能登島、中島、鹿島、七尾(図説のみ)、門前、根上である。
中でも、中島は民俗主任で、教員を辞め住職なった時と重なり、共にやっていた若き専門委員3人が、
一人はご両親の面倒を見なければならず、それでかなり代わりに調査し、一人は〆切近くになって県会議員に立候補されて退かれたので、それで残りを補い、一人はやはりそろそろ〆切という頃に亡くなられた。
私より若いこの人には「人の一生」を執筆していただいており、届いた下書きの原稿の初めの文が
人は生まれ、死んでいく・・・
とあって、泣きながら原稿を補い清書をしたものだった。
これだけでも思い出すことは多いのに、
よく懇親会があって一緒に現地へ行くことも多く、町の文化財関係者ともずいぶん親しくなった。
その折、最も仲良くしていただいた橋本左輔さんが97歳で去られたことを新聞で知った。
いわゆる家族葬で、葬儀が終わっており、亡くなられた日時も分からない。
町史調査は平成に入った頃だから、30年以上前になる。
編さん室の事務をしていた方に連絡を取ったが、分からないという。
車のリコール(穴水でしか出来ない)を4日に抱えていたので、
4日、橋本さんを偲びつつ、想い出の地を回った。
といっても、大きな宝篋印塔のある「端」と、町史の折、巡ったかどうか記憶が曖昧な長専寺さんに行っただけなのだが・・・。
本文続き・・・ご家族が遠方においでるので家族葬にされたのだろうから、せめて左輔さん宅前で手を合わせてこよう、と記憶にある佐助宅前を通ると、車が止まっていた。
ムム・・・。玄関は鍵が掛かっていたが、御家族の方がおいでになり、お参りすることが出来た。
去年あたりまで、近くの人に会えば、左輔さんどうしてる?と聞いており、その都度元気だよとの声が返っていた。
つい最近までお元気だったそうで、この30日に息を引き取られたという。
橋本家には「今本屋三代の俤」や「末世目覚草」などがあり、特に「末世」には阿武之松一行が出身地の七見に凱旋巡業した時の途中の巡業の様子や、飢饉年ごろに熊木川が氷り子どもが川の上で相撲を取っている様子、秋あがりの本山詣でなど庶民生活の宝庫のような話が盛られているはずだ。
その本をテキストにして勉強会をすれば、どんなに楽しいだろう。
つい愚痴がでるが、
高額の年貢(地代)をとって回りを空き地だらけにし、今も空き地予備者が続いている、現地にいない大地主の文書講座が計画されているという。
ー何人からか、理解出来ない問い合わせがあったので、そのことが載っているという冊子を見ると、
なんと「某地主と真宗寺院」という講義名ー。
講者では無くとも、狭いところだ。
私がどこかで関わっている・・・と思った人がいても不思議ではない。
その町に、借地していて年貢を払えず都市部へ移っていった(廃寺)真宗寺院がある。それから~十年。
高齢者、年金暮らしの方々が多く、どうしておいでるかとおもうことがままある。
病院ではなく家で生を終えたい・・・といった一般的な話がマスコミで語られたりすると、より、切なさが募る。
空き地だらけの現実があるのに、「地主家と真宗寺院」
―そんなタイトルで話ができるはずがないだろうに・・・、
こちらに住んでいない地主も、離れたところにある師匠寺も、門徒が苦しんでいることを知っている近くの寺々も、そして土地を借りている人はなおさら・・・、皆つらい
いかにも君たちとは違うといった高みから見る学者がいて、それを招いて、いかにも仕事してますよー、と講座を開く人(たち)がいる。
そんなこともあって、
「末世目覚草」と左輔さんの笑顔が、より親わしく浮かんで来る。
今日訪ねたお寺は、凶作の年ごとに法宝物の「親鸞伝絵」を質に入れ、門徒さんたちの年貢を納めていた。
町史に載っているのだが、原典は?
次々、思いは流れていく・・・。