『末世目覚草』今本屋佐助(2代目)著より、文政十年(1827)御講師・香樹院徳龍師巡回御教示


『末世目覚草』には文政五年(一八二一)~弘化五年(一八四八)の様々な出来事

ーおかげまいり、本山、疫病が流行り、藩から御殿医を十八人加越能へ派遣。一人が本屋で五日ばかり逗留―

時疫薬の調合方法まで記されている。
 そこに、本山講者徳龍(香樹院)が御教示に来られた時の様子が載っていた。
 「地方教示」に船を用いたこと、そのときの様子などは発表されたことがないはずだ。
 歴代佐助家の最後の佐助さんが先月30日に逝去なさり、普段は家が閉まる。
その節目に、佐助さんを偲びつつ、その部分を引用する。

 時は、文政十年(一八二七)年閏六月

一、御本山ヨリ国々江御講者御差向、

御両国ハ越後之とくりう様与申御講者様御廻被為成、

郡々之触頭寺江御末寺中御呼出、 

坊守ニ至迄御書院御教示、同行ハ御堂御教示被遊候、

誠ニ風に草木のなひくかことく御繁昌ニ御座候、 

尤御講者様御乗被候屋たい舟ハ、八拾石積之舟ヲ雇、

中嶋ニて拵、緋縮緬等之幕を打、

閏六月廿四日我等穴水迄御向ニ参り申し、

則西岸・嶋地・灘・石崎等ゟ四十餘艘引舟出申し、

所口ヨリ御馳走舟三艘参り、

長浦高茂之端ニ御中飯、七ツ時所口御着、

七月二日まて御教示在之候

 

【読み・(注)】

一、御本山より国々へ御講者御差向け、御両国(加賀・能登)は越後の「とくりう」様(徳龍・香樹院)と申す御講者様、御廻り成され、郡々の触頭寺へ(中島は鹿島郡鹿島郡触頭・東は所口ー七尾ー長福寺)御末寺中御呼び出し、坊守に至るまで御書院御教示、同行は御堂に御教示遊ばされ候。

誠に風に草木のなびくがごとく御繁昌に御座候。

尤も御講者様お乗り候らるる屋台舟は、八十石積みの舟を雇い、中嶋にて拵(こしら)え、緋縮緬の幕を打ち、

閏六月二十四日我ら(佐助ら)穴水までお向かえに参り申し、

則ち西岸(旧中島町)・嶋地(能登島)・灘(七尾東海岸)・石崎(七尾市)等より四十余艘、引き船出し申し、所口(七尾北部)より御馳走舟(文字通り、御馳走・食事を載せた舟)三艘参り、長浦高茂の端に御中飯(昼飯)、七つ時(午後4時ごろ)所口お着き、

七月二日まで御教示之れ在り候。

※長浦高茂の端

長浦は三ツ口瀬戸の南、能登島と中島との間がもっとも狭い一帯で、「ツインブリッジ能登」橋が架かっている。

高茂は瀬嵐の散村だった時代があり、万葉に歌われている机島・歌の種子島と言われた種子島がある。

景観に勝れ二つの島のあたりを須磨・明石に見立て、人麻呂社が建つ。人麻呂社の正面に石動山があり、景勝の湾の最高の景勝地で一行は昼食をいただいたことになる。

 

【文政ごろ】
文政二年『信後相続 歓喜嘆』刊

 盆踊りの歌詞のもっとも古い版本。信心をいただいた後の相続、信心歓喜嘆のタイトルがつけられているように、19,20願の意味、他力門機法一體などすべてが真宗教義の歌詞.

同五年 御消息「世々の先徳…」発給

この年、御消息の歴史で画期的な「世々の先徳・・・」が発給される。膨大な内容で、巻子を見ただけで「世々の先徳・・・」と分かるほど。教学の充実があって自信を持って書かれた究極の御書と言えるだろう。

先日も一組の回り御講で「世々の先徳を・・・」あげていると聞いた。

この御書は、能登教区に146通存在する(平成十年度)。

同六年 両堂焼失
同七年 仮両堂
同十一年 六月十八日御影堂再建斧始め

この御教示は、文政期の両堂焼失、その再建に向けての巡回だったことが分かる。一方で異安心問題も頻発しており、今一度、教えを確かめる、不審を詳らかにする使命もあったのだろう。

 

 

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香樹院師が所口においでた徳龍師である。御門徒宅にあったもので数軒の門徒さんや当地から去った方々が預けて行かれた。同行さんの学び、住職の研鑽、そのテキストなどの分野は、全く調査も研究もされていない。文政10年徳龍師は何を話して行かれたのだろう?篤信の御門徒が多い地域である。何人かは書きとどめておいでるはずである。疑問を持っていれば、たいていたどり着ける、のだが・・・やっている時がない。問題提起にとどめておこう。

 

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