仏御前の里―祇王・祇女と五逆の譬喩

8月1日に小松教務所の暁天講座を終えた後、平家物語祇王」の中心人物・仏御前の里・原が小松教区内だったことを思いだした。

この祇王の母・「とじ(刀自)」が、自ら命を絶とうとした祇王に、老いた身が子がいなくなって生き続けることは出来ないーそれは親殺し・五逆罪にあたると戒め、自害を思い止まらせる。

弥陀の本願、第十八願の抑止文「唯除五逆 誹謗正法」の五逆を説明するのに、最高の喩えが、祇王・祇女・仏・刀自をめぐる「あはれなりし事どもなり」(平家物語祇王」末)の物語だと思っている。

 

その本文を引用し、仏御前の里・原を記録しておく(12日に訪ねた)。

祇王(『平家物語』)

 さやうの事

(とは、清盛を訪ねてきた仏御前を追い払おうとする清盛に、一度会ってみたらと勧めたところ、すべて―みめ形・声・舞―が美しい仏を愛でこころをうつした清盛は、祇王に暇を出す。祇王は「もえ出るもかるるもおなじ野辺の草いずれか秋にあはではつべき」と泣きながら障子に書き付け宿所に帰る。翌春清盛は使者を立てて、仏御前がつれづれげに見えるから、参って今様をうたい舞を舞って仏を慰めよ、という。母刀自は、覚悟を決めている祇王を説得し、清盛の元に向かわせる。独りで行くのはあまりに辛いため、妹祇女を具し、泣く泣く「ほとけも昔は凡夫なり我等も終には仏なり いずれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ」と詠った。」満足した清盛は、これからは召さじとも常に参って、仏を慰めよという。この世にあれば辛い目に会わねばならない。もう身を投げよう、というと祇女も私も一緒に身を投げます、という。母刀自は、参って慰めよと説得したのは、お前の訴える切ない思いが、)

 

 あるべしともしらずして、けうくん(教訓)して、まいらせつる事の心うさよ。但わごぜ身をなげば、いもうともともに身をなげんといふ。二人のむすめ共にをくれなん後、年老をとろへたる母、命いきてもなににかはせむなれば、我もともに身をなげむとおもふなり。

 いまだ死期も来らぬおやに身をなげさせん事、五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりのやどりなり。
 はぢてもはぢでも何ならず。唯ながき世のやみこそ心うけれ。今生でこそあらめ、後生でだにあくだうへおもむかんずる事のかなしさよ」と、さめ〴〵とかきくどきければ、祇王なみだをおさへて、「げにもさやうにさぶらはば、五逆罪うたがひなし。さらば自害はおもひとゞまりさぶらひぬ。かくて都にあるならば、又うきめをもみむずらん。いまはたゞ都の外へ出ん」とて、祇王廿一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。
 いもうとのぎによ(祇女)も、「あね、身をなげば、我もともに身をなげんとこそ契しか。まして世をいとはむに誰かはをとるべき」とて、十九にてさまをかへ、あねと一所に籠居て、後世をねがふぞあはれなる。
 母とぢ是を見て、「わかきむすめどもだにさまをかふる世中に、年老、をとろへたる母、しらがをつけてもなににかはせむ」とて、四十五にてかみをそり、二人のむすめ諸共に、いつこうせんじゅ(一向専修)に念仏して、ひとへに後世をぞねがひける。

 かくて春すぎ夏闌(たけ)。秋の初風吹ぬれば、星合の空をながめつゝ、あまのとわたりかじの葉におもふ事かく比なれや。夕日のかげの西の山のはにかくるゝを見ても、日の入り給ふ所は西方浄土にてあんなり、(略……たそがれどきも過ぎ、親子三人念仏していると、竹の網戸をほとほとと打ちたたくものがいる。魔縁ではないか?と思いつつ網戸を開けると、)

 

仏御前ぞ出で来る。
 祇王「あれはいかに、仏御前と見たてまつるは。夢かや、うつゝか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様の事申せば、事あたらしうさぶらへ共、申さずは又おもひしらぬ身ともなりぬべければ、はじめよりして申なり。もとよりわらはは推参のものにて、出されまいらせさぶらひしを、祇王御前の申状によつてこそ、めしかへされてもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心にまかせずして、おしとゞめられまいらせし事、心ううこそさぶらひしか。
 いつぞや又めされまいらせて、いまやう(今様)うたひ給ひしにも、思しられてこそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと思ひしかば、嬉しとはさらに思はず。

 障子に又「いづれか秋にあはではつべき」と書置給ひし筆の跡、げにもとおもひさぶらひしぞや。其後はざいしよを焉(いずく)ともしりまいらせざりつるに、かやうにさまをかへて、ひと所にとうけ給はつてのちは、あまりに浦山しくて、つねは暇を申しかども、入道殿さらに御もちいましまさず。つく〴〵物を案ずるに、娑婆の栄花は夢のゆめ、楽しみさかへて何かせむ。人身は請けがたく、仏教にはあひがたし
 此度、ないり(※奈落・地獄のこと)にしづみなば、たしやうくはうごう(多生曠劫)をば、へだつとも、うかびあがらんこと事かたし。

 年のわかきをたのむべきにあらず、老少不定のさかいなり。出るいきのいるをもまつべからず、かげろふいなづまより、なをはかなし。一旦の楽みにほこって、後生をしらざらん事のかなしさに、けさまぎれ出て、かくなつてこそまいりたれ」とて、かづきたるきぬ(衣)をうちのけたるをみれば、あまになつてぞ出來る。

(略、「仏御前)

ことしは纔(わずか)に十七にこそなる人の、かやうにゑど(穢土)いとひ浄土をねがはんと、ふかくおもひいれ給ふこそ、まことの大だうしん(道心)とはおぼえたれ。うれしかりけるぜんぢしき(善知識)かな。いざもろともにねがはん」とて、四人一緒にこもりゐて、あさゆふ仏前に花香をそなへ、よねんなくねがひければ、ちそくこそありけれ、四人のあまども皆往生のそくはい(素懐)をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法王のちやうかうだう(長講堂)のくはこちやう(過去帳)にも、祇王・祇女・ほとけ・とぢらが尊霊と、一所に入られけり。あはれなりし事どもなり。

 

 

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仏御前荼毘地へ。右の地蔵龕、左の五輪塔。この五輪が珍しい。火輪の全部に火輪をあらわす梵字(ラ)が陽刻されている。


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仏御前は永暦元年(1160)1月15日白河兵太夫の娘として原町に生まれた。

幼少の頃から美人で歌舞に長じて、仏を信ずること厚かったので、仏と呼ばれていた。

14才の時に京に上り白拍子となり、時の権力者、平清盛の寵愛を一身に集めた。以前から清盛に仏御前を紹介した祇王・祇女の姉妹は世の無情を感じて嵯峨野に尼となったのを知り、自らも報音尼と称して仏道に精進した.安元元年(1175)仏御前が17才の時だった。

翌年、原に帰って小庵にこもったが、治承4年(1180)8月18日亡くなった。仏御前の庵室のあったところを午前様屋敷といい、三基の墓石が残っている。

墓石は左から、供養碑、供養祠、墓石と伝えられている。中央の祠は昭和20年代に別の場所から、30年代に「御前様屋敷」の地名が残る現地に移された。