人麻呂(神)像と『松下集』(招月庵正広著)
※タイトル=瀬嵐人麻呂社-旧中島町、をクリックして下さい。
先月末人麻呂(神)像に出会った。
所蔵者は真宗大谷派寺院。おそらく、神仏判然令によって神社に祀られていた像を寺院に移したのであろうが、そう考えるには人麻呂像が仏像と同じと意識していた人々を想定しなければならないが、ともあれかなり前から存在を気にしていた「人麻呂」さんに会えた。
人麻呂と言えば、
七尾市中島瀬嵐(せらし)には人麻呂社があって、石動山と向きあう、遙拝地として最高の地に社がある。
七尾城主・畠山義統(よしむね)は、文明11年(1479)に堺にあった歌人招月庵正広を府中に招待しており、その時の招待文に、「瀬良志」というところに人麻呂像があり、景観の素晴らしい浦々を見に来ないかと認めている(『松下集』)。
正広は、家持も歌に残した机島、(歌の)種島、能登島に遊び、七尾湾を補陀落(観音浄土)と見る歌を残している。
「古寺残燈 此浦の南の小嶋補陀羅具(補陀落)のはしめはこれか残るともし火 小嶋の観音とてましますをよめり、・・・」[文明12年9月4日]
『松下集』には、人丸像は木像とあって、この陶製人麻呂とは違うが、
人麻呂は、月と歌の地・能登に脈々といきてきたはずである。
そこで、
近くに合祀前の人麻呂社がなかったか?
人麻呂の本地仏は何なのか?
穴水にも知られた人麻呂像があったはずで、分布はどうなのか?
この像の焼きー時代は違うと思うが「珠洲焼神像」との比較も考えなければならないだろう。
いろいろ思いは広がるが、
まず、能登沖地震で文化財の燈籠などが倒壊していた、瀬嵐・人麻呂社地を見てこなければ・・・。