「蟪蛄春秋を知らず」の出典-『真宗聖典』(大谷派)275ページ

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蟪蛄

写真2011年(平成23年)8月9日撮影

よく聞いたり、見かける真宗に用いられている語(韻文)であるのに、真宗聖典に出典が載っていないものがある。
私たちは蟪蛄のようなものでしかなく、何にも知らないのだ、春秋を知る方(善知識、ブッダ如来)のおっしゃる通りに頷くしかないとか、「愚昧の今案をかまえず」(聖典725ページ)に通ずる「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」(聖典275ページ)の出典が「聖典」には載っていない。
それで、原語がどういう文脈で用いられているのか、調べた。

真宗聖典大谷派)]二七五ページ
蟪蛄1. p275 / 顕浄土真実信文類三(教行信証・信)210~278
必ずしも須らく頭数(ずしゆ)を知るべからざるなり。「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」と言うがごとし。知る者これを言うならくのみと。
「十念業成」とは、これまた神に通ずる者、これを言うならくのみと。ただ念を積み相続して、他事を縁ぜざればすなわち罷みぬ、また何ぞ仮に念の頭数を知ることを須いんや。
 
浄土真宗聖典 七組篇』「往生論註 巻上」(本願寺出版社)六十二ページ
浄土真宗聖典 七組篇』九十八ページ
真宗聖教全書 一 三経七組部』三百十一ページ

問日、心若他縁、攝之令還可知念之多少。但知多少復非無間。若凝心注想、復依何可得記念之多少。

答曰、経言十念者、明業事成辮耳。不必須知頭敷也。
如言蟪蛄不識春秋。伊蟲豈朱陽之節乎。知者言之耳。十念業成者、是亦通神者言之耳。
但積念相續不縁他事便罷。
復何假須知念之頭數也若必須知亦有方便。必須口授。
不得題之筆點
[書き下し、延べ書き]
問ひて日はく、心若し他縁せば、之を撮して還らしめて念の多少を知りぬべし。但多少を知るとも復無間には非ず。若し心を凝らし想を注げば、復何に依りてか念の多少を記することを得べき。

答へて曰はく、経(観経・註釈版)に十念と言へるは、業事成辨を明かすのみ。必ずしも頭数を知ることを須ゐざるなり(ず。註釈版)。
蟪蛄は春秋を識らずと言ふがごとし。伊(こ)の蟲豈朱陽の節を知らむや。知る者之を言ふのみ。十念業成とは、是亦神に通ずる者之を言ふのみ。
但念を積み相績して他事を縁ぜざれば便ち罷みぬ。
復何ぞ念の頭数を知るを須ゐることを假らむや。
若し必ず須く知るべくは亦方便有り。必ず須く口授すべし。
之を筆點に題することを得ざれ。

無量寿経優婆提舎願生偈註

 

荘子 逍遙遊第一篇  『新釈漢文大系 老子 荘子上』一三九ページ  明治書院
北冥に魚有り。其の名を錕と為す。其の幾千里なるを知らず。化して鳥と為る。其の名を鵬と為す。(略)
[原文]
蜩與鷽鳩(かくきう)笑之曰、我決起而飛、槍楡枋時則不至而控於地而已矣、奚以之九萬里而南爲、適莽蒼者、三飡而反、腹猶果然、適百里者、宿春糧、適千里者、三月聚糧、之二蟲又何知、小知不及大知、小年不及大年、奚以知其然也。朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋、此小年也。
楚之南有冥靈者、以五百歳爲春、五百歳爲秋、上古、有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋、而彭彰祖乃今以久特聞、衆人匹之、不亦悲乎。
[書き下し文]
蜩と鷽鳩と之を笑ひて曰く、我決起して飛び、楡枋に槍(いた)る。時に則ち至らずして地に控するのみ。奚(なん)ぞ之が九萬里を以てして南するを爲さん、と。莽蒼(もうそう)に適(ゆ)く者は、三飡(そん)にして反るも、腹猶ほ果然たり。百里に適く者は、宿に糧を舂(つ)き、千里に適く者は、三月糧を聚(あつ)む、と。之の二蟲又何をか知らん。小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばず。奚を以て其の然るを知る。朝菌は晦朔を知らず、蟪蛄は春秋を知らず。此れ小年なり。楚の南に冥靈なる者有り。五百歳を以て春と爲し、五百歳を秋と爲す。上古、大椿なる者有り。八千歳を以て春と爲し、八千歳を秋と爲す。而して彰祖は乃今久しぎを以て特り聞ゆ。衆人之に匹せんとする、亦悲しからずや。
[訳]
蝉と鳩が鵬を笑った。「われわれが勢いよく飛び立つて、にれやまゆみの木に止まろうとしても、時には中途で地に投げ出されることがある。九万里も上って南に飛ぶなど、とんでもないことだ。」郊外に行くとぎは、三度の食事で戻って来ても、(近距離なので)空腹を感じないが、百里の旅には、前夜に米を舂いておくし、千里の旅には、三箇月も前から食糧を集めておくものだ。(このように遠い旅には準備が必要なのだ。)
 このちっぽけな生きものに、一体なにが分かろう。小さな知慧は大きな知慧に劣るし、短い寿命は長い寿命に劣るものだ。どうしてそれが分かるかというに、朝菌は(たかだか一日の寿命なので)月の終りと始めを知らないし、蝉は(たかだか一夏の寿命なので)春と秋とを知らない。これは短命だからである。
 楚の南に冥霊という木があつて、五百年を春とし、五百年を秋としている。大昔、大椿という木があつて、八千年を春、八千年を秋としていた。ところが、(七百歳の)彰祖は、現在、長命によって特に有名で、人々はそれに匹敵しようとする。悲しいことではないか。