太宰春台-門徒物忌み知らず-その後

 

3月12日(火)に「門徒もの知らず 森龍吉氏 太宰春台の評価」を書いた。

そこで残った疑問のその後である。

調べるために、七尾図書館で人物叢書『太宰春台』、『徂徠学派』(岩波思想体系)を調べ、「聖学問答」が全文入っていたので、古本で『徂徠学派』、『親鸞思想-その精神と風土ー』(森龍吉)『親鸞-その思想史-』(三一新書)を購入した。

 

※タイトル部ー門徒もの知らず 森龍吉氏 ・・・をクリックしてください。移動します。 

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『徂徠学派』岩波思想体系

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「聖学問答」の一向宗門徒の部分。注釈に一向宗親鸞もない。不親切。



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 蓮如』森龍吉 講談社現代新書
 江戸中期の経世家太宰春台は『聖学問答』のなかで、「一向宗門徒は、弥陀一仏を信じること、専らにして、他の仏神を信ぜず。いかなることありても、祈祷などすること無く、病苦ありても、呪術符水を用ひず。愚なる小民婦女、奴婢の類まで皆然りこれ親鸞氏の力なり」と驚嘆している。かれは太宰家を継いで信州伊那谷に移るまでの少年時代を真宗地帯の能登で送っているから、幼くして門徒の生活慣習と気風をよく知っていた。

親鸞聖人の「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす」から、
蓮如上人御遺言に示されている猪子などの「停止のこと」の数々、それらの行事をやめ続ける時が経過すれば、その対象は、すべて何だか分からない「もの」になってしまう。

愚禿悲嘆述懐和讃   16首中8,11首
かなしきかなや道俗の 良時吉日(きちにち)えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀をつとめとす
かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す 

 

御文 一帖目の9 優婆夷・仏忌の御文
そもそも、当宗を、昔よりひとこぞりておかしくきたなき宗ともうすなり。
これまことに道理のさすところなり。
そのゆえは、当流人数のなかにおいて、あるいは他門他宗に対してはばかりなく、わが家の義をもうしあらわせるいわれなり。
これおおきなるあやまりなり。
それ、当流のおきてをまもるというは、わが流につたうるところの義をしかと内心にたくわえて、外相にそのいろをあらわさぬを、よくものにこころえたるひととはいうなり。
しかるに、当世は、わが宗のことを、他門他宗にむかいて、その斜酌もなく聯爾に沙汰するによりて、当流をひとのあさまにおもうなり。
かようにこころえのわろきひとのあるによりて、当流をきたなくいまわしき宗とひとおもえり。
さらにもってこれは他人わろきにはあらず。
自流のひとわろきによるなりとこころうべし。
つぎに、物忌ということは、わが流には仏法についてものいまわぬといえることなり。
他宗にも公方にも対しては、などか物をいまざらんや。
他宗他門にむかいては、もとよりいむべきこと勿論なり。
また、よそのひとの物いむといいてそしることあるべからず。
しかりといえども、仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむべからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。
まず、『涅槃経』にのたまわく、如来法中無有選択吉日良辰」といえり。
この文のこころは、如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなしとなり。また『般舟経』にのたまわく、「優婆夷、聞是三昧欲学者、乃至自帰訓命仏帰命法帰命比丘僧不得事余道不得拝於天ハ不得祠鬼神ハ不得視吉良日ハ已上」といえり。
この文のこころは、優婆夷この三昧をききてまなばんと欲せんものは、みずから仏に帰命し、法に帰命せよ、比丘僧に帰命せよ、余道につかうることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれといえり。かくのごとくの経文どもこれありといえども、この分をいだすなり。
ことに念仏行老はかれらにつかうべからざるようにみえたり。よくよくこころうべし。
あなかしこ、あなかしこ。
文明五年九月日

 

ダザイウヂ 太宰氏(『加能郷土辞彙』日置謙編)
織田信長の臣・平手政秀は中務大輔と称したが、その主の無道を諌めて天文廿二年(一五五三)正月十三日切腹した。
人物叢書・太宰春台』(吉川弘文館)、以下[人物叢書
政秀は信長の老職、守り役で信長を戒め諫死。信長は瑞雲山政秀寺を建立する。 
二代、子・監物後甚左衛門汎秀、亦信長に仕へ、三方ヶ原の役に徳川家康の軍を救うて戦没した。
汎秀の兄時秀は、長島一揆勢に討たれた。政秀の戦死は元亀三年十二月。
三代彦左衛門秀言の時、織田氏滅び、後金沢に移住。
 能州羽咋郡菅原邑(村)にて没。

 

ダザイウヂ 太宰氏(『加能郷土辞彙』日置謙編)
織田信長の臣・平手政秀は中務大輔と称したが、その主の無道を諌めて天文廿二年(一五五三)正月十三日切腹した。

その子・忠左衛門言親は横山氏に仕へた。
言親の季子・理兵衛言辰は姻族・太宰謙翁の家を嗣ぎ、後、去つて信濃飯田侯堀氏に仕へた。
言辰に三子あつたが、長男重光は廃疾によつて僧となり、
次子・孫右衛門純は延宝八年(一六八〇)九月飯田に生れ、元禄元年九月、父と共に江戸に移つた。
純は即ち春台である。
世に春台の加賀に縁故ある如くに言ふものは、この故である。
                                                             

平田篤胤の太宰論
「(太宰春台は)今時の漢学者が鬼神の如く恐れる儒者」(『出定笑話』篤胤著)。

 

『聖学問答』(太宰春台)『徂徠学派』(岩波思想体系)
※は頭注あり。
カクイヘバトテ、祈祷祭祀ヲ、一概ニ非トスルニハ非ズ。小民ヲ治ムル道ハ、祈祷祭祀ヲ捨ルコト能ハズ。是ニアラザレバ、衆心ヲ安クスルコト無キ故ナリ。
古ノ先王、国家ニ巫祝ヲ立置キ、祷祀祭祀ノ礼ヲ制シテ、鬼神ニ事フル道ヲ、天下ノ民ニ示シタマフ。先王ノ仁ナリ。

易ニ、「※聖人以二神道一設レ教而天下服矣」トイヘル、是ナリ。
其身ニ於テハ、鬼神ニ惑ハズ。皆孔子ノ如シ。是古ノ君子ノ心ヲ立ル所ニシテ、※王符ガ潜夫論ナドノ意カクノ如シ。然レバ今日ノ君子モ、身ヲ修メ身ヲ守ル処ハ、誰モ皆孔子ノ如クナルベキ者ナリ。

 日本ノ仏者ノ中ニ一向宗門徒ハ、弥陀一仏ヲ信ズルコト専ニシテ、他ノ仏神ヲ信ゼズ。如何ナル事アリテモ、祈祷ナドスルコト無ク、病苦アリテモ呪術〈マジナヒ〉・※符水〈ゴフウ〉ヲ用ヒズ。愚ナル小民・婦女・奴碑ノ類マデ、皆然ナリ。
親鸞氏ノ教ノ力ナリ。

 今純(※注・春台)ハ一向宗ニアラザレドモ、孔子ヲ信ズルコト、彼等ガ弥陀ヲ信ズル如ク、鬼神ニ遠ザカリテ祈祷祭祀セザルコト、全ク一向門徒ノ如シ。

 室中ニ先父母ノ神位ヲ設ケ、※神牌ヲ立テ〈神主ヲ作ラズ、説アリ〉、※歳時朔望ニ奠献スルノミニテ、更ニ神像仏像ヲ安置セズ。宅ニ方寸ノ護符〈フダ〉ヲ貼〈ヲス〉セズ、身ニ一封〈ヒトツツミ〉ノ護符〈マモリ〉ヲ佩ズ、厄難ニ遭トイヘドモ、神呪ヲ誦シ、仏名ヲ念ズルコト無シ。
念誦ノ恃ムニ足ラザルコトヲ知レル故ナリ。

凡人ハ、一生ニ一タビ死セザルコト無シ。何事ラア死スルモ、死スルハ死スルナリ。生アル者ノ常ニテ、定マレル事ナリ。其中ニ、人ハ首領〈クビ〉ヲ保テ地ニ残スルヲ上トス。古ノ君子ノ願フ所ナリ。然レドモ義ニ当レル事ニハ、首領ヲ保ツコトヲ得ズシテ死スルモ、命ナリ。命尽ザルホドハ、必死ノ地ニ居テモ死セズ。命尽レバ、※蓍婆・※扁鵠ガ禁方ニテモ、※生身ノ不動観音ノ加持ニテモ、活スコト能ハズ。若祈祷加持ニテ厄難ヲ除キ、死ヲ免ルゝ者ナラバ、天命ハ尊ブニ足ラザルナリ。
死生ノ変ノミニアラズ、一切ノ禍福吉凶・栄辱升沈・貴賎貧富、皆然ナリ。
カクノ如ク達観通知シテ、毫髪モ疑惑スルコト無キヲ、※知命ノ君子トイフ。
純ハ知命ノ君子ニ非ズ。至愚陋劣ナルコト、只一向門徒ノ如シ。
是純ガ安身立命ノ一ツナリ。

 

 

前田利家が加越能で最初に居を構えたのが「菅原」の地である。

純(春台)の祖父はそこで亡くなっている。

幼い頃、ひょっとしたらその地で、春台は一向宗浄土真宗)の雰囲気に触れていたかも知れない。

~かも知れない。が取りあえずの結論である。