上山春平氏の人間魚雷「回天」日誌

朝日新聞(3月30日朝刊)に、「上山春平氏の人間魚雷「回天」日誌・憲法私案」記事が載っていた。

 

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2019年3月30日朝日新聞朝刊

 

 

私は、昭和59年(1984)上山(うえやま)さんが能登に執筆調査においでた時、民宿の同室で一泊し、その時、人間魚雷「回天」で特攻出撃なさったことなどを詳しくお聞きした。

その後、何度かこのブログに上山さんとのことを書いたが、「回天」のことは書かず、ブログ記事の最後に引用した文、「(上山さんの著書は)「天皇制が大きく変わる時を見据えてお書きになったのことだった」の一文におさめた。

それが、新聞に氏の原点が詳しく載ったので、その時のことをかいておこうと思う。

泊まったのは当時の能都町波並の民宿「さんなみ」で、その晩、人間魚雷「回天」の特攻隊員だったこと、出撃した時のこと、天皇制とは何かを問い続けておられることなどを、淡々と話された。
そのことに対して、私は、子供のころ見た白黒映画「人間魚雷-回天-」の一場面-

瀬戸内海で「回天」乗組員が訓練中に魚雷が故障し、なんとか浮かびあがってハッチから身を乗り出した時、海辺近くの道を着物姿の子どもたちが「赤とんぼ」を歌いながら、夕やけの道を歩いているーというシーンがあって、童謡と共にこころに残っています、そのようなことを上山さんに話したと思う。

当時、上山春平(氏)は、対話の名人と言われていたような気がする。
また、上山さんは、私が話した「親鸞伝絵」にかなり興味を示され、NHKブックスに書きませんか、京都へ帰ったら担当者に話しておきますとまでおっしゃった。

その話はそこまでだったが、
後に全集が出版されたり、

先の戦争を語るのに、上山さんは「大東亜戦争」の語を用いられた。当時使っていた言葉で考えないと真実に迫ることが出来ない、というのがその理由だった。

「大東亜」を使った途端、押しつぶされて思索が途切れてしまうような時を過ごした戦後っ子の私たちとは、思索精神の強靱さが違うと、思い続けていたが、
今日の記事や、時代の変化時の今日、あらためて上山学が問われるののではないかと思う。


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写真①

 

 

今までのブログに書いた上山春平先生
2011-04-18  
上山春平氏の黒峰城ー昭和59年12月ー
ネガを整理していたら、思わぬネガが出てきたので写真にした。
昭和59(1984)年12月5日(水)、黒峰城址における上山春平氏である。
立山にある黒峰城址へは、『珠洲市史』で城主伝承阿部判官を書いたとき、編纂室長の間谷庄太郎さんに案内していただいており(昭和53年頃)、
12月4日にお会いして色々話す中で、特に興味を示された黒峰城へご案内する事になったのである。
記憶をたよりに山道をいき、ようやく城址にたどりついた時の写真。

立っておられるところは掘り割り南のもっとも高い場所で、そばには多くの石があった。
上山氏は京都で幻の城あとを見つけられたそうで、黒峰城址に対しては、これほど中世当時の姿をとどめている城址はない…とすこぶる感動されていた。

[写真①]

上山氏63歳の頃か。

 

2009-06-03  
三波(能登町)での鵜川・穴水組坊守
2日、波並の食堂(ベーカリー)で坊守会があった。
6月は年度末なので、鵜川・穴水組では、従来から勉強して昼食というパターンのよう。
それで、会所は、郵便局のすぐ側の洋風の食堂。そこは、昔、民宿をやっておいでになり、よく泊まった。
宇出津高校で共に勤めたメンバーが、それぞれ郷里近くの高校に転勤していった後、何度か集まり、飲み、旧交を暖めた場所であるとともに、調査においでた研究者も、何人かお連れした記憶がある。
五来先生とも一度泊まったような気がするのだが、私の家でお泊まりになっているので、記憶違いだろう?
はっきり記憶に残っているのは、上山春平先生である。随分遅くまで、二階の部屋で話し込んだ。
あの時、小学館から頼まれて、先生のアエノコト(あえのこと)調査につき合い、黒峰城祉も一緒に歩いた。
調査の仕方は、素晴らしいものだった。
新聞社やカメラマンが執行者の回りを行ったり来たりしている中で、メモ一つ取らずに、「行事」を体で味わっておられた。
行事に溶け込んでおいでた、と言ってよいかも知れない。
講義の合間に、そんなあれこれを思い出していた。
上山先生は、その頃、京都国立博物館長をなさっていた。
調査の結果は、昭和61年5月刊『日本民俗文化体系 第一巻 風土と文化=日本列島の位相=』「天皇制のデザイン」(上山春平)中の「天皇制と大嘗祭」に結実している。

今日、「六斎日」を調べるために『律令』(岩波日本思想体系第3巻)を開いたら、「月報」(1976年12月)のトップが、上山先生の「律令天皇制」だった。
多くの人との思いでのある場所で、
ほとんどが昨年初めて出会った方々との勉強会。
流れは絶えずして…かつ消え、かつ結びて…だ。

2005-12-05  
かつては、多くの研究者が一度は「あえのこと」を見ようと訪れた。
こういうこともあった。
当時京都国立博物館館長だった上山春平さんが、小学館の『日本民俗文化体系1 風土と文化』の担当部分を執筆するために調査にお出でになり、一緒に執行家で調査・取材していた時、遅れてきた某新聞記者が、写真を撮るためもう一度お願いしますとさわりの儀礼を再度してもらったことに対して、静かながら憤り、嘆いておられたことが忘れられない。
上山さんは、メモも鉛筆もカメラも持たず、ズーと座ったままで「あえのこと」を感じておられた。
「神事を二度させるなんて、あってはいけないことです。」ともおっしゃっていた。
ショーじゃないのだ。
ところで、当たり前のことだが、当主が神の下座にいるのに、カメラマンは見えない神のいるはずの場所の上座に陣取って写真を撮る……。
その頃はまだ遠慮がちだったのに…、今は、多くのカメラマンやマスコミが座を滅茶苦茶にしている。
じっと行事を見つめられていた上山さんがお書きになったのは、『日本民俗文化大系1』の364p部分である。
量的には僅かであるが、実際に見ておいであるからこそ書けた部分である。見ないことには「あえのこと」は理解できないと。
ここまで書いてきて、そういえば、一緒に「あえのこと(アエノコト)」を見学した後、能登町の「さんなみ」という民宿の同じ部屋で泊まり、
上山さんが執筆なさった中公新書を数冊頂き、色々お話ししたことも思い出した。

ところが、どうして上山さんを案内することになったのか、そのいきさつが思い出せない。
『風土と文化』は1986年5月に刊行されている。
とするとご一緒させていただいたのは、その前年の暮れ「あえのこと」だった可能性が強い(1984年12月4~6日)。
それにしてもほぼ20年の時が流れた。
頂いた中公新書は4冊だったような気がする。
上山さんの著者(新書)は、一見バラバラなテーマーのように見えるが、
天皇制が大きく変わる時を見据えてお書きになった
とのことだった

 

 

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中公新書-上山氏執筆、そのほか「大化の改新」など