蓮能尼伝承―畠山正光寺、北西先生と

真宗文化・習俗論に載せる新聞記事の掲載日がいつだったか調べていたら、同じ頃の記事に、門前町馬場まで北西先生に来ていただいて古い位牌を見ていただいたものがあった。
先生が還帰され、来週49日を迎える。
これも御縁だ。
あらためて記事を読むと、蓮能尼・西谷内城に関する先生の見解が載っていて貴重。

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1988年昭和63年12月26日 北國新聞朝刊
いきさつをたどってみると
畠山さんに古い位牌があることは、どこかで当時の御住職からお聞きし、そのころ輪島支局長だった砺波和年氏に伝えたはずだ。
そこで、彼が学芸部時代に企画などで親しくしており、一向一揆研究の第一人者である北西先生に馬場までお出まし願った・・・と記憶している。
1988年だから、まさに一向一揆500年の年、もう31年も前のことになる。

新聞記事

一九八八年(昭和六十三)十二月二十六日北國新聞朝刊

畠山氏ゆかりか 正光寺室町時代の位牌 門前町
大谷大学長 北西氏ら確認

[写真]位牌を鑑定する北西氏(右)と西山教諭=門前町正光寺

 門前町馬場の真宗大谷派正光寺室町時代の位牌(はい)が伝わっていることが分かり、北西弘・元大谷大学長(内灘町)らが二十五日までに確認した。この寺は戦国武将畠山一族ゆかりとの寺伝を持っており、位牌はこの伝承を裏付け、北西氏らは注目している。
 調査には位牌の価値を最初に見いだした西山郷史飯田高教諭が同行した。位牌の表には男女の名前に続いて「覚霊之位」と彫られ、裏面に「文明五年(一四七三年)、宝徳二年(一四五〇年)」と記されている。高さ四十八・五㌢、幅五㌢で、特徴のある頭部は古式雲首型、朱漆が塗られている。
 正光寺は江戸時代初期には現在地より四キロ近く中島町寄りの同町切挟にあり、寺伝や切挟地区の伝承によると「畠山政栄の二男宗近が一向一揆に追われ同寺に入った」といわれている。
 この畠山政栄は今の中島町の西谷内城主で、七尾畠山の一族だった。娘の蓮能尼は蓮如上人の五番目の妻として知られている。
 政栄は文明六年(一四七四年)京都で没し、長男政近が加賀南部で京都北野神社の社領とかかわっていたこともあって、中島畠山家は自然消滅する。
 宗近という二男のいたことは歴史的に確かめられていない。しかし、北西氏らは「時代も符号し断足はできないが、畠山氏ゆかりの人が両親などの位牌を持って寺に入った可能性が強い。真宗寺院にこのような位牌のあるのは大変珍しい」と話している。畠山秀円・正光寺住職(七四)は「代々この位牌を大事にしろといわれてきた」と話し、歴史的価値に改めて驚いている。