本願寺に納められた輪島塗

前の蓮能尼伝承の記事の後、わずか一ヶ月後に本願寺に納めた輪島塗についての記事が載った。
9年前に他のブログ記事の中で触れているが、9年も経てば新紹介と同じだろう。

本願寺史の一出来事であり
輪島塗歴史の一コマである。

照福寺文書(新聞見出しの読みが間違っているが)を提供したのは私だが、
実際に納入(6千点)した記録を加えたのは、当時の輪島支局長・砺波氏だった。

その頃は、埋もれている地域・民衆の歴史や習俗に、気づき、驚き、周りの人々にも知ってもらおうと、からだが空けば歩き回ったものだった。
そして、打てば響く先人―砺波氏を含め―たちが、いたるところにおいでた。
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平成元年(1989)1月26日(木)「北國新聞」朝刊

新聞記事
[見出し]
東本願寺(京都)が大量注文 輪島の寺院から史料 飯田高・西山教諭が発見
[写真・キャプション]
輪島塗の知名度の高さを裏付ける東本願寺からの手紙(部分)

[本文]
 幕末に焼失した京都・東本願寺から大量の輪島塗の注文があったことを改めて裏づける史料が、二十五日までに輪島市の寺院で見つかった。同市石休場町の真宗大谷派・照福寺文書の一点で、「何ぶん他外にては整えがたく」との表現もあり、輪島塗が当時すでに全国ブランドとして高い評価を得ていたことを示している。

 同史料は、能登を中心に宗教民俗を調べている珠洲市飯田高校の西山郷史教諭が、約三百点の同寺文書の中から見つけた。東本願寺の役人が、同派の奥能登を統括していた寺にあて、焼けた家具調度品のあっせんの仲介を頼んだ手紙である。

 「非時(仏事の食事)用の家具が全部焼けた。ご遠忌も近いので必要になると思う。(輪島塗は)何ぶん御産の品物だから他国では調達できない。照福寺殿より話もあるだろうが、取りはからい方をお願いします」といった内容になっている。
 年代は記されていないが、西山教諭は金沢御坊(別院)関係者を含む差出人四人の就任年月日などから、本願寺が焼けた安政五年(一八九八年)か翌年ではないかと、推定している。当時の照福寺住職は、いまの大谷大学助手のような職にあたり、京都との問を行き来していたため実質上のあっせんをしたらしい。
 輪島市に残る町方文書によると、本願寺への五百人分の膳(ぜん)や椀(わん)などの漆器類は慶応二年(一八六六年)ごろに納入されたことがわかっている。その数は約六千点で、手紙は大量注文の経緯を具体的に裏付けることになった。