言若五輪塔―阿部判官郡境文書―


黒峰城城主・阿部判官の記した「珠洲鳳至郡境文書」と言われるものがある。
阿部判官は一時期、いろんなところで語られたが、私の回りに「判官」を話題にする人がもういない。
ただ、宝立公民館で話をすることがあり、興味を示してくださっている方は何人かおいでる。
今年1月23日に宝立の地名を公民館行事で話した時、ともあれ私の書いた物や話したものを歩いて確かめておいでる方がおられ、
言若(ごんじゃく)の五輪塔だけどうしても見つけられない、どこにあるのか?とおたずねになった。
今はつぶれて無くなった峠のモーテルの一隅にあり、かつて写真を撮りに行った時は気まずい思いをした。
国道沿いで、車も頻繁に通るところで、誰か見ていたらしく、
坊さんがモーテルのところから出てきたと、知り合いの坊さんが私に言ったことがある。そのことをどこかで話したようで、そのエピソードまでおっしゃって、どこなのか訪ねられた。
図を書いて、ここ!、と説明したのだが、写真を撮った時からずいぶん経っている、通りががかりに寄ってみた(5日)。
前の写真

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2010年ブログに書いた時、『伝説とロマン』など様々なところで用いてきた写真。
現在
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水輪しかない。しかもひっくり返っている。この写真だけじゃ場所が分からない。下の写真で分かるはずだ。
この階段を登ったところに、形のいい五輪が見えたのだ。

五輪の大部分がなく、案内板もない。
判官文書は「法徳」という私年号が書いてあることでも、名高かったのだが・・・・・・
これらはどうなっていくのだろう・・・・・・

(※左寄せで書きたいのに、改行ごとにセンターになってしまう。)


以下、
2010年9月24日、ブログ引用
珠洲・鳳至郡境文書と現地珠洲市】【能登町】 民俗・歴史・日々

阿部判官「珠洲・鳳至郡境文書」である。四至だと思っていたが、八カ所の境・目印が載っている。

「覚
一 鈴郡山さかい 羽根ほほ内よりはな
かけ堂ごんしゃくのごりん石きり
はたとちの木を境黒峯辻堂
立山西がねの瀬、北山のきどの口
間浦のさかさま川切に、
法徳九年八月六日 阿部判官□久
            花押」  

「はなかけ堂」。
8日の宇出津寺院巡りで、常椿寺さんにある「はなかけ堂」の地藏に出会った。
そういえば、いつだったか、こんなところに…と思った記憶がよみがえってきた。
「宇出津発祥の地といわれる鍋谷の荘十八束山中越えの旧道、珠洲郡と鳳至郡の郡境である峠にあった地藏。
羽根から山伝いで十八束に出る道があり、郡境の峠で一服する旅人のかたわらにあったので、郡の端に腰掛けたところから端掛け地藏と呼ばれるようになった。大正3年常椿寺に移った。」旨の説明がある。

「ごんしゃくのごりん石」(言若の五輪塔)。
能登町合鹿(ごうろく)地内言若。道路を拡幅したため、五輪はホテルの前に移されたというか、五輪が移った場所の後にホテルが建ったというべきか、
気づきにくい場所で、ちょっとたずねにくい場所でもある。伝説では、阿部判官の墓とも言われていた。判官文書に載っている五輪が判官墓ならおかしなことになるが、○代阿部判官なら、ありうる。




「間浦のさかさま川」(真浦の逆さま川)。 珠洲市真浦町。
垂水の滝となって流れ落ちる川が崖上を流れており、よく分からないのだが、一部さかさまに流れている(西流している)ところがあるそうだ。
それで、逆さま川の名がついているのだが…。

残りの羽根ぼぼ内は探せだせそうだけど、
桐畑栃の木、黒峰辻堂、宝立山西かねの瀬、北山木戸口は推定するしかない。
西山郷史 (id:umiyamabusi) 8年前