見附島・見付島・見月島・二島ー『珠洲散策のーと』より

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    2019/03/01(金)、午前9時

 

 見附島 
概説 見付島とも書くが、島名は見附で表すことが多い。
 珠洲市南寄り、鵜飼(うかい)海岸(着崎(つきざき)海岸)の南東二〇〇~三〇〇㍍にある。
 周囲約四〇〇㍍、標高(ひようこう)二八㍍、面積一一四七平方㍍。
 珠洲地方に広く分布する新第三紀(註 七〇〇〇万年前からの新生代第三紀、第四紀に分け、およそ二〇〇万年前までが新第三紀。ほ乳類の進化、地殻(ちかく)変動が激しくアルプス、ヒマラヤ山脈などがほぼ出来上がったとされる。次が第四紀洪積世(こうせきせい))珪藻泥(けいそうでい)岩からなる。
 弘法大師空海)が佐渡島から能登へ渡った時、見つけた島で、この付近から上陸した(着島(つきじま))という伝承があるほか、加志波良比古(かしはらひこ)神の同様の伝説、「見月島」と記す紀行文もある。
 島上には見附(みつけ)神社があり、クロマツ・シイ・タモ・エゾイタドリなど寒暖両系の植物が分布(ぶんぷ)。カラス・ウなどの生息地(せいそくち)となっている。 (西山、以下(N)で表す)

月崎・みづき島(『能登名跡(めいせき)志(し)』安永六年・一七七七)
 「又(また)此川(このかわ)(註 鵜飼川)の湊(みなと)の洲崎(すざき)を月崎と云(いえ)り。風景たぐひなき地也(なり)。
 又(また)見付島と云(いい)て大きなる島有(あ)り。弁財天(べんざいてん)の社(やしろ)あり。三月一八日祭礼也(なり)。
 昔、大同(だいどう)年中(八〇六~一〇)弘法大師御帰朝(ごきちよう)のとき、船中へ何(いず)くともなく法華経(ほけきよう)読誦(どくじゆ)の声聞ゆ。声にしたがひこぎよせ給へば、今のみづき島つきぬ。実は舟の着島(つくしま)といふこと成(なる)べし。」P55

見月島(『能登日記 坤(こん)』文化一四年・一八一七『能登路(のとじ)の旅』所収以下同じ)
「左に見月島等(など)見ゆる。此島(このしま)は奇岩集まり立(たち)、其中(そのなか)に松もあり。其回(そのまわり)二百間ばかり。側(かたわら)に又一頭如拳立(こぶしのごとくたつ)、共に見月島と云(いう)。陸を離るる事一町(いつちよう)(註 六〇間、約一〇九㍍)計(ばかり)、奇島なり。」P65
※解説
 二島(ふたしま)の名があるのは、どちらも見附島と呼ばれた二つの島に拠(よ)る。
 「月」が用いられているのは、月の名所としての見附島の存在がある。袈裟(けさ)掛け松付近の庚申(こうしん)塔、山門前の同塔、あし谷(たに)の二十三夜塔など、法住寺をはじめとして見附島を望める一帯に、月待ちの由緒(ゆいしよ)がある。月の名所としての見月島も考えに含めておきたい。

見附(みつけ)神社(『珠洲郡誌』大正一二年・一九二三 )
 「鵜飼(うかい)見附島上に小祠(しようし)を安んじ、無格社にして市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭る。初め見附(みつけ)弁(べん)財天(ざいてん)社と称せしが、明治四年三月今の社号に改む。その勧請(かんじよう)の年号詳(つまびらか)ならず。或(ある)いは住吉(すみよし)神社よりも以前、既(すで)に之(これ)を祭(まつ)れりといえり。
 初め十二薬師を安置せしが、佐渡の人、之(これ)を盗み去れり。爾来(じらい)その祭日たる三月十八日(註 郡誌当時の大正初期。現在は四月一八日)の前日には、必ず東北の風ありて、神霊(しんれい)、佐渡(さど)より帰り給(たま)うと称す。
 祭日には村民小舟を島の周辺に艤(ふなよそおい)し、置酒(ちしゆ)歌舞(かぶ)して一日の慰安(いあん)となせり、住吉・見附の両社、共に古来(こらい)橘氏之(これ)に奉仕す。」P465~6      

古老の語り (『宝立(ほうりゆう)の今昔』)
 「上(註 見附島の上)には、一つの祠(ほこら)があって、市杵島姫(いちきしまひめ)命(のみこと)(弁財天)(註  市寸島比売(いちきしまひめ)命とも。 田心(たごり)姫(奥津島比売(おきつしまひ め))命、湍津(たぎつ)姫命と共に宗像(むなかた)三女神の一。厳島(いつくしま)神社などで祀(まつ)る)を祭っている。
 勧請(かんじよう)の年月ははっきりしないが、住吉神社よりも前に祭ったと伝えられている。
 初め十二薬師の銅仏を安置したが、佐渡の人が盗み去ったという。これ以来、祭日三月一八日(今の四月一八日)の前日には、必ず東北風(註 あいの風)が吹いて神霊が佐渡よりお帰りになると言われている。
 次に虚空蔵(こくぞう)菩薩の木像を安置したが、又(また)なくなったという。祭日には村民が島のまわりに舟を出して酒をのみ、歌やおどりで一日を楽しんだ。」P64 (中嶋吉正)

島の様子(聞き取り)
 島の後ろの方に段がついていて、島へあがることが出来た。春祭りには段から島上にあがり祭礼を営んだ。
 『珠洲市史』を編さんされた間谷(けんたに)庄太郎氏が、かつて島上へ上ったことがあった。太ももまではいる長靴(ながぐつ)を履(は)いていったのだが、烏(からす)の糞(ふん)が溢(あふ)れており、随分沈んだという。油不足が深刻になった戦時中に、糞を舟で運び出した人々がおり、全体の三分の二ほどまで綺麗(きれい)に削(けず)り取った痕跡(こんせき)があったという。  (N)

島の姿が変わった享保(きようほう)大地震(『すゞろ物語』四九号)
 「今年享保(きようほう)一四年(一七二九)七月七日昼すぎ、大きな地震がおこり、午後四時頃までに大きな揺(ゆ)れが五度あった。能登地区に強く、現在のキリコ会館がある付近の輪島市稲舟(いなぶね)、粟崎(註 町野町粟蔵(あわぐら)か)、野々江(ののえ)、飯田、鵜川などで二五〇軒(けん)全壊(ぜんかい)・五〇八軒半壊(はんかい)の被害が出た。
 藩関係の蔵の被害。三一ヶ所山崩(やまくず)れ(註 これも藩の保護下にあるもののみで天領(てんりよう)・幕府領は含まない)があった。」
 「加賀・能登に大地震が起こり、特に能登での被害が多く、村井安左衛門が支配地の状況を調べるため、七月一一日に金沢を発(た)ち、二日後輪島へ着いて被災地を調べ上げた。」([改隣記]『加賀藩史料』)P66(飯田高校郷土史同好会)
※解説
 鵜飼(うかい)村の被害も大きく「見月島山崩れ」とあるように、見附島は、この時に今の形に近い姿となったようである。引用文は「飯田高校郷土史同好会」が学校祭に発表した展示解説をまとめ、「すゞろ物語」に載せたものの一部。

着崎(つきざき)・足洗(あしあらい)の井(『能登名跡志』)
 「(見付島・みづき島は)実は舟の着島といふこと成(なる)べし。其時(そのとき)白山宮翁(おきな)と顕(あらわ)れ、吼木(ほえぎ)の山上に導き給ふと也(なり)。
 其時(そのとき)の道すぢと云て、田の中にあがりの小路とて道あり。其時の橋あとと云(いい)て、元橋と云(いう)あり。この橋爪に洗足(あらいあし)の井(い)とて、今も霊水あり。大師足洗ひ給ふ水也。其外(そのほか)大師の旧跡在々所々(ざいざいしよしよ)にありて、筆にも尽(つく)しがたし。」P55
※解説
 見附島から「見附公園」を横切り、宝立小学校へまっすぐに向かう道がある。この道が国道を越えると細くなり、その突き当たりの丘に「中島薬師」があった。「足洗の井」は、小学校台地の北の麓(ふもと)、道沿(ぞ)いにある井戸(いど)であろう。とすれば「元橋」は金峰寺(こんぽうじ)橋のことになるが、鵜飼大橋付近に元橋があり、その近くに井戸があった、と聞き伝えている人もおられる。

珠洲散策のーと』は、観光ボランティアガイド「きらり珠洲」の代表をしていた平成20年(2008)に作成した。江戸期の紀行文、『珠洲郡誌』など、古文や振り仮名のない難しい本に振り仮名を付け、新聞記事などからも引用し、これさえあれば・・・を目指してvol1だけを作った。

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珠洲散策のーと」平成20年(2008)3月31日刊、261ページ。全て手作業(パソコン)で作った。

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いずれも昭和10年代。その頃は、まだ見付島と砂浜をつなぐ石の道はなかった。左の島も大きく、まさに二島だった。ただ60年頃前も島近くの水深はおとなの膝くらいしかなく歩いて渡れ、島の後ろには階段がついていたはずである。写真提供・泉写真館『写真アルバム能登半島の昭和』(いき出版、編集・西山)より。