鳥越弘願寺跡―一向一揆―

5日(火)、久しぶりに鳥越弘願寺跡付近を歩いた。
勧化も勤め上げ、ようやく北西弘先生(1月25日寂)、橋本朝陽氏(2月5日寂、同学年)のお寺に手を合わせにいける日が来た。
朝陽氏の法名は「歓喜院釋朝陽」、北西先生は「尚史院釋学人」。
お二人の人がらが偲ばれる。
北西先生の『一向一揆』、そして、今年一揆531年。故・真継伸彦氏を案内する機会があればよかったのに・・・などと思いながら、
暖かい日射しに誘われ、鳥越、笠池ヶ原などを歩いた。



鳥越弘願寺跡
町指定文化財(史蹟)、平成元年(1989)4月1日指定
観応元年(1350)に本願寺3世の法主覚如の弟子玄頓によって創建されたといわれ、北加賀における一向宗最初の拠点と考えられている。
 笠野川の流域にひらけた小盆地の入口に位置し、小高い丘陵を背に三方を高さ5mくらいの土塁で固めており、倶利伽羅峠を越える他国の勢力を防ぐ重要な役割を持っていた。
この寺の跡は、一向一揆の頃の城郭寺院の面影を今も鮮やかに残しており、全国的に類例のないすぐれた遺跡である。
 また、この弘願寺をとりまく防禦施設として、鳥越タテヤマ砦跡、鳥越城跡、田屋御前山砦跡、鳥尾屋ノナカ砦跡、鳥尾屋シバンニヤ砦跡の各遺跡が確認されている。
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この解説は、裏道の通り沿いに立っていて、気づきにくい。
ゆっくり歩いたので、気づくことが出来た。
3枚目の大国主社境内のような地点である。

宝塔 指定・弘願寺跡と同じ
石材は安山岩で、現高148・5cmを測る。(相輪の上部は欠落)
 四方に扉型を彫刻した塔身や、六角形の屋根にタルキを刻み出した入念な手法などがこの宝塔の特徴であり、室町時代中期のものと考えられている。
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鳥居と社殿の間にあった。
室町期の石宝塔がひそかに、隠れておいでになった、と思えた。


鳥越弘願寺跡のアテ(ヒノキアスナロ)県木アテの第三位。高さ28m、幹回り3・7m
鳥越弘願寺跡のハリギリ(火除けのセンノキ)
高さ35m、幹回り3・7m。県内第二位。
天正八年(1580)佐久間盛政が末森城攻略の途中、弘願寺を陣営にしようとしたが、ことわられため、弘願寺を焼き払った。付近一帯が火の海となったが、この木は奇跡的に火災からまぬがれたという。
 それ以後、誰言うとなく火除けのセンノキと呼ぶようになった。
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弘願寺第22世墓石、明治28年9月建立
「倶会」(阿弥陀経)とある。
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北西先生宅

何度かお寺の前を通り、手を合わさせていただいた。
北西則夫御住職とは、近くのお寺で蓮如忌があって参り合わせをなさっておいでる場でお会い出来、
お悔やみを申させていただいた。→7日、河北潟西岸の蓮如