百姓ノ持タルヤウナ国、百姓ノ持タル国、門徒の持ちたる国

10月23日に書いた、拾塵記の一文に刺激され、一向一揆の中心を担った清沢地区、願得寺、白山古宮を想像していると、いつも疑問に思っていたことが浮かんできた。
加賀あるいは長享の一向一揆によって「百姓の持ちたる国」になった、あるいは「持ちたる国のようになり行き」であって、「国になると、国のように」では実体が大きく違うのだ、とする文に出会うのである。
それはよく分かるのだが、
その原典はどこにあり、
誰が「国のようになり行き」の「ようになり行き」を省略して用いだしたのか、
さらに、そうではないと言いだしたのは誰なのか?
を確かめねばと思った。

全く関係無い、といえば関係無いのだけれど、昨日書き終えた「佐野春菴」伝と関わる鈴木大拙の下宿を、『鈴木大拙未公開書簡』という基礎文献がナ部を十部と記したため、長い間混乱が起きていたことを思い出しながら書いたので、まず原典がどうなっているのかを知りたかったのである。
(ウキペディア)などでは、実悟が言い出したとある。
それで、拾塵記をかすむ目で見たのだが、拾塵記は儀式に関する書物で、載っていない。
『新編真宗全書』に「実悟記拾遺」が載っているので見ると、次の一文に出会った。
時々用いる釶打の火仏話しも、この書に載っている。
実悟記拾遺が真宗全書にあることは『仏教主要叢書目録』(方丈堂出版)によって知った。
この目録は極めて便利。
白山・石動夫婦説-実悟上人『拾塵記』

百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ

一、其後加州ニ、叉富樫次郎政親、イトコノ安高ト云ヲ取立テ、百姓中合戦シ、利連ニシテ、次郎正親正親ヲ討取テ、安高ヲ守護トシテヨリ、百姓トリ立富樫ニテ候アヒダ、百姓等ノウチツヨク成テ、近年ハ百姓ノ持タル國ノヤウニナリ行キ候コトニテ候 「実悟記拾遺下」(新編真宗全書史伝編七)

百姓の持ちたる国

原典がわかったところで、研究者たちはどのように用いているのだろうか?
と、三冊の『一向一揆の研究』ー笠原一男、井上鋭夫、北西弘氏を開き、
金龍静氏の『一向一揆論』もパラパラと見た。
最初の『一向一揆の研究』(笠原一男)に載っている。他の方は触れていないようだ。
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一向一揆の研究』(笠原一男、昭和37年、山川出版)
7行目、「百姓ノ持タル国」となったのであり、
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一向一揆-その行動と思想-』笠原一男、評論社、昭和45年刊
下1行目、まさに、「百姓ノ持タル国」


いずれも「百姓ノ持タル國ノヤウニナリ行キ候コトニテ候」と引用しつつ、
本文では「百姓の持ちたる国」は・・・、だ。
一気に解決した。
そして、百姓=農民となっている。


門徒の持ちたる国」は、私が勝手に使っていた。

百姓=農民に非ず

このことを、網野善彦氏が明らかにされ、広く知られるようになったのは、
1997年に刊行された『日本海佐渡』(高志書院)に載る「海から見た佐渡-島・ムラの再考ー」中の「百姓は農民とはかぎらない」からだと思う。
笠原論から34年後の書籍である。
20140810百姓は農民とかぎらない

その頃は、毎年夏に網野氏一行とお会いしていた。
次の文は、2009年4月21日の記事である。
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1986年に創刊され、25号に至った。
日本常民研究所が借りた古文書返却を目的に
網野善彦氏が能登を訪れたのが1984年のことだった。
その後の、能登時国家調査と平行して刊行されており、
創刊以来、ずっーと頂いている。
能登に住む者として
25号を機に、「歴史と民俗」に載る能登を扱った論や語句をデーター化しなければならないのかも知れない。
ただ、1、2冊行方不明の号があり、
どこに行っているのかを考え出すと、先へ進めない面倒な性格なので、
ストレスを貯めないために「見ざる」…という手もある。
200904021

実悟上人

戦国・安土・桃山時代の僧。明応元(一四九二)~天正十一(一五八三)十一月二十五日。[諱]兼了、兼俊、実悟[幼名]光童[通称]中将[出自]本願寺八世蓮如の十男、母は治部大輔畠山政栄の娘蓮能[事跡]河内願得寺一世。加賀若松本泉寺の兄蓮悟の養子となり、本泉寺に入寺。一五〇二年出家し、十三年加賀剣木(木は間違い)清沢坊〔願得寺〕に人る。十四年実賢宗主擁立事件に連座し、本願寺内での立場が悪化、二十九年※信濃浄興寺より親鸞遺骨を分与される。三十一年大小一挨(享禄の錯乱)により寺基を焼失。本願寺十世証如より勘気を蒙り諸国を流浪。五十年赦免。六十二~六十七年頂河内古河坊に定住。のち古河坊を願得寺と改めた。七十六年院家。また生涯を通じて聖教の書写、著作活動に従事。今日の真宗書誌の研究、中世本願寺の歴史研究に大さく寄与している。[著作]蓮如上人遺徳記、聖教目録聞書、日野一流系図、下間系図、実悟記(本願寺作法之次第)四巻など多数
信濃浄興寺。昭和二十七年に真宗浄興寺派として独立した本山高田浄興寺が名高い。高田以前のいわゆる長沼(長野市)浄興寺である。山号歓喜踊躍山(かんぎゆやくざん)。正式な寺号は浄土真宗興行寺(じょうどしんしゅうこうぎょうじ)。それを略して浄興寺と通称する。

侍能工商之事 185=百姓

一、奉公官仕をし、弓箭を帯して、主命のために身命をもおしまず。
一、又耕作に身をまかせ、すきくわをひさげて、大地をほりうごかして、身にちからをいれて、ほりつくりを本として身命をつぐ。
一、或は藝能をたしなみて、人をたらし、狂言綺語を本として、浮世をわたるたぐひのみなり。
一、朝夕は商に心をかけ、或は難海の波の上にうかび、おそろしき難波にあへる事をかへりみず。
かゝる身なれども、彌陀如來の本願の不思議は、諸佛の本願にすぐれて、我らまよひの凡夫をたすけん、といふ大願ををこして、三世十方の諸仏にすてられたる悪人女人をすくひましますは、たゞ阿彌陀如來ばかりなり。これをたふとき事ともおもはずして、朝夕は悪業煩悩にのみまとはれて、一すぢに彌陀をたのむ心のなきは、あさましき事にはあらずや。ふかくつゝしむべし。あなかしこ??。※184は白骨の御文
蓮如上人遺文』稲葉昌丸