高桑守史氏

 

高桑 守史(たかくわ もりふみ、1945年 - 2018年)は、日本の民俗学者大東文化大学名誉教授。本名は守。文学博士(1992年、筑波大学にて取得)。
略歴
石川県松任市(現白山市)生まれ。1970年早稲田大学第一文学部史学科東洋史専修卒業。1975年東京教育大学大学院文学研究科日本史学民俗学)専攻修士課程修了。石川県白山自然保護センター技師、山口大学教養部助教授、国立歴史民俗博物館民俗研究部助教授、筑波大学歴史・人類学系教授、大東文化大学教授を歴任。1992年「漁撈民俗の伝承主体に関する考察」で筑波大学にて文学博士[1]。
著書
『漁村民俗論の課題』未来社 1983
『日本漁民社会論考 民俗学的研究』未来社 1994[2]
共編著
能登 寄り神と海の村』小林忠雄共著 日本放送出版協会 1973
『渚と日本人 入浜権の背景』高崎裕士共著 日本放送出版協会 NHKブックス 1976
『図説日本民俗学』福田アジオ,古家信平,上野和男,倉石忠彦共編 吉川弘文館 2009(ウキペディア)

守ちゃん、郷ちゃん

仲良しで、ドンドン話が弾むので相手の名をゆっくり呼んでいる暇がない、というような付き合いをする時期がある。
高桑さんは私より一つ学年が上なので、高桑さん、西山の関係なのだろうが、それではまだるこっしいので、タカックワ、ニッシャマと言ってみたこともあったが(年上が分かっているのに、これにはやはり抵抗があるので)、モリ(守)ちゃん、サト(郷)ちゃんと呼び合っていた頃があった。
あとで、あの頃はモリちゃんサトちゃんだったものなぁ―と過去のように話題にしつつも、変わりようもなく、なんとなくその呼び方にもどって飲んだり歌ったりした。

それが次の署名。
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「守ちゃん」
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当然、「郷ちゃんへ」と書いてあるとばかり思っていたが、「謹呈 西山郷史様」となっている。
字および配りを見るだけで、彼の構想力、統率力、展開能力の高さを感じる。


この署名は
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『渚と日本人 入浜権の背景』NHKブックス昭和51年(1976)7月
をいただいたときのもの―なんと、高桑氏30歳、私が29歳の時だ。

他の高桑守史著作集

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能登=寄り神と海の村』日本放送協会昭和48年(1973)8月
次に『渚と日本人 入浜権の背景』

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『漁村民俗論の課題』未来社1983年(昭和58)2月

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『日本漁民社会論稿 民俗学的研究』未来社1994年(平成6)2月

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『「宮本常一」論―高桑ゼミ民俗論集Ⅱ―』
1998年(平成10)3月筑波大学・人類学系・民俗学研究室

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「民俗空間としての浜辺」
『里海の自然と生活Ⅱ三河湾の海里山』水ノ輪出版2012年(平成14)2月刊所収
これは、久しぶりに高田馬場で会ったあと、大きな3冊を送ってきた、その一冊。


二人が組んで行った仕事が、二つある。
その一つ、歴民博に展示した舳倉島精霊船制作については、は2009年(平成21年)に出した「能登を知る―準備号」にいきさつを書いたのと、その後の出来事をブログに書いているので、転載する

国立歴史民俗資料館を飾る「舳倉島精霊船

能登を知る=準備号
平成二一(二〇〇九)年二月一日「能登を知る会」発行

舳倉島精霊舟国立歴史民俗博物館を飾る
 能都町の県指定無形民俗文化財「あばれ祭」が千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に展示されることになったー一月十四日「北國新聞」ー。慶賀。
 ところで、国立歴史民俗博物館には、すでに「あえのこと」の舞台である田中牛雄家の座敷が設置されているほか、あまり知られていないと思うのだが、舳倉島の精霊(しょうりょう)舟が展示されている。
いうまでもなく精霊舟は、お盆と密接なつながりがある。
 お盆を昭和四三年にジカタで行うようになる前は、舳倉島では八月二七・二八日がお盆日で、葦(あし)で精霊(生霊・ショウリョウ・ショウレイ・ショウライ)棚を作り、盆ダンゴや果物などを供え、先祖の霊を迎えた。また、浄土宗法蔵寺の島の本堂では、盆の法要が盛大に行われ、境内の松の木には白布の吹き流しが立てられ、無縁仏の霊も迎えたという。
 盆が済むと、精霊棚を舟形に改造して、お供え物と共に海へ流す「精霊流し」が行われたとのことだが(『海士町舳倉島 奥能登外浦民俗資料緊急調査報告書』輪島前(ざき)神社宮司中村裕氏ー当時輪島高校教諭ー石川県立郷土資料館・一九七五年三月刊)、中村氏も書いておられるように、島での盆・祭礼日には変遷があり、精霊舟を作った経験をお持ちの大積有雄さん(大正元年生)、尾崎久八さん(明治四〇年生)によれば、「精霊流し」の方は、昭和二〇年代にはもう行われなかったとのことだった。
 お二人から話をうかがったのは、一九八四(昭和五九)年のことで、舟を流していた頃のお盆は八月一三日から一六日。家ごとに舟を作り、厨子(ずし)の横に棚を設けて安置し、一六日の午後、果物や菓子のお供えを詰め、海辺で偈(げ)を唱えてから泳いで西の方に流した。沈まないように、下には一枚板をあてたという。
ともあれ、供物と一緒に海に流してしまうのだから、舟の実物は存在しないはずだが、緊急調査をきっかけとして一九七六(昭和五一)年に、石川県郷土資料館(現石川県立歴史博物館、当時は石川近代文学館が資料館だった)が開いた「海と生活ー輪島ー」特別展では、調査当時、輪島市港公民館館長だった山下吉松さんが制作した精霊舟を展示している。
 それから九年、一九八五(昭和六〇)年に開館することになった国立歴史民俗博物館の展示資料の一つに「舳倉島精霊舟」が選ばれ、私に制作協力の依頼があった。
 その時、この人の右に出る人はいないと紹介され、制作を依頼したのが大積さんで、協力して舟を作ってくださったのが尾崎さんだったのである。
 作り手が見つかり、作り方が分かっても、材料となる葦(あし)と、葦を編んで舟の形にするための「ツヅリコ」という道具を用意しなければならない。舳倉島には葦があるのだろうが、町域の大積さん近辺では葦もツヅリコも見ることのないものになっていた。
 それで、「ツヅリコ」は門前町皆月の松岡元さん(大正元年生)に使えるものを探し出してもらい、近所の人の協力もあって、皆月では蒲(がま)、輪島市石休場(いしやすみば)では茅(かや)を刈ってもらって届けたのだが、柔らかすぎたり固すぎたりで、使うことができなかった。
 飯田町のはずれに葦原(あしはら)があり、その葦がちょうどよいことがわかり、大積さんのところに運び入れたのが八月二九日。二日後には出来上がり、法蔵寺に安置してある「精霊舟」を取りにうかがった。
 葦舟といえば、恵比寿神の元だとされる蛭子(ひるこ)が、流された時に乗っていった舟が葦舟だった。
 そんな事を思いながら、再びこの世に姿をあらわした精霊舟を見た時、その堂々たる姿に圧倒された。           (写真)
 全長一三〇㌢、高さ九〇㌢。白帆部の名号は法蔵寺高田俊雄住職の字。筈緒(はずお)は五色で、結び方を「精霊結び」といい、切り方も独特のものであるとのことだった。写真では分かりにくいが、木の舵(かじ)までついている。
 もう二五年も前の出来事である。いきさつ・エピソードを知っているのは、依頼してきた高桑守史(もりふみ)氏(当時国立歴史民俗博物館助手、現大東文化大学大学院教授)と私ぐらいなものだろう。それに、能登精霊舟があり、ツヅリコという道具があったことさえ、もう忘れ去られようとしているのではないだろうか。
 宇出津のキリコの記事をきっかけに、一つの「もの(・・)」が、世に伝わり続けることが、いかに大変で、いかに多くの人びととの縁があってなされていくのか…。
 その一端を伝えたくて、「精霊舟」制作当時の思い出を、ノート、新聞記事などを調べながら記した。
 もしかしたら、金沢、千葉に「精霊舟」は伝わっていても、能登には、存在していないのかもしれない。
 仙台松島近くの塩竃神社にある能登の製塩で用いていた大きな塩釜、金沢の銭五記念館前にある狼煙沖から揚がった巨大な碇(いかり)など、そこにたどりついたいきさつや御苦労話なども、聞き伝えておきたいものである。        (一月三〇日・西山記)

 

もう一つは