舳倉島の精霊舟と、その想い出を綴ったお手紙、そして高桑守史氏

sosite2011年11月9日(水)に「石川県退職者会奥能登支部(女性部会)」でお話しした折、
失われたものを、プロジェクターを用いて紹介する時も持った。
その時、昭和20年代まで舳倉島で用いられていたという精霊舟の写真を紹介した。
当時のものではなく、昭和60年(1875)に開館した国立歴史民俗博物館に展示するため、海士町の人に作ってもらったものである。
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写真:精霊舟

そのいきさつをお話ししていると、
私の父が作った船だァ…!
と驚かれた方がおいでた。
お聞きすると、作成メンバーのもっとも長老・大積善四郎さんのお子さんだった。
お子さんといえども、この写真は持っていない、というか、このような写真があることをはじめてお知りになったはずだ。
海士町で3人目の女学校に行き、県職員となって生活改善の普及などの職を退職され、現在82才になっておいでるというお子さんに手元にある写真を数枚お送りした。
それに対していただいたお手紙は、
70年以前の舳倉の様子から現代の精霊舟に対する心意までが記してありー
貴重な民俗資料とでも言うべきものだった。
紹介させていただく。

精霊舟の想い出ー70年前の舳倉の子ー(便り)

先日の能登の歴史のお話、とても楽しい時間でした。本当にありがとうございました。
能登空港生涯学習でもお伺いしましたが、また一段と身近なお話で知らないことも多く友人や公民館の学習時も聞かせたいと思います(特に天神山の方角石など)。

また今日はお願いした写真早速お送り下さいまして重ねてお礼申し上げます。
今日は父の命日で早速仏壇に飾り、墓に報告してきました。
私も海士町出身で小学6年までは毎年6月から9月まで舳倉島の分校に通いました。
当時輪島は男女別々の学校でしたが島では共学でした。あの頃の交通は漁船で不便でしたが、お盆や夏祭りは特別に楽しみでした。

お盆は8月13日から16日。
仕事はすべて休みです。
その頃になると盆用意という特別に仕立てた船で、輪島の町(じかた)までお供え用の果物や食品、必需品(五色の色紙など)を仕込んできました。
お廚子さんの横の床の間に精霊棚を作り、13日の午後から16日のお昼までは毎食精進料理を供えていました。
先生が送って下さいました(※「舳倉島の精霊舟」作成経緯に記されている)精霊舟を作るツブリコも家にあったような気がしますし、
島に生えていた葦(青かった)で作っていたこと、
棚に筈緒や提灯を飾っていた事が思い出されます。
これらのことは男の仕事でした。

16日の午後にはそれを船に作り、お供えしたものを詰め、舵をつけ、
家族は晴れ着に着替えてお経を上げて沖へ流しました。
私は御先祖様が本当にお浄土へお帰りになるのだと思いました。

今から思えば父は海士町や舳倉の歴史をよく知っていたと思います。
子供の頃に同年代の友達がよく家に集まってお茶を飲みながら話していました。
舳倉や海士町の事について永福寺(※浄土宗)の先代住職さんに頼まれて大学の先生や研究者によく話していました。
作ったのは父・善四郎や尾崎久八さん(毎日訪れていました)達だと思います。
(※父は)その年の11月に亡くなったのですが…。

その時の精霊舟を写真(※上の写真)で見て驚きました。
国立博物館へ納めると聞いていたのですが、金沢の歴史博物館にもあるとのこと(※あの時2つ作ってもらい、1つは県立歴史博物館に納めたはず)、
今度機会を見て金沢にいる妹と共に訪ねたいと思います。

時代の流れか、今ではお盆にお墓に果物などをお供えすることも鳥などの被害で禁じられ、またお供えを海へ流す行事も海の汚染で無くなりました。

このことを先日魚売りに来る海士町の女の人に(50代くらい)話したら
今でも沖で漁をしていると精霊舟が流れてくるのに会うことがあるそうです。
そうすると縁起をかついで次の日は漁を休むのだと話していました。

テレビ、新聞などから知ったのですが
今でも福井県の越前などでは海士町と違って大型の船で集落ごとに流す行事があるとか…
私も子供の頃舳倉の後(西)にその船が漂着していたのを何回も見たものです。
私たち子供は、それを見ると幽霊船だと言って逃げ帰ったものです。

今度の先生のお話であらためて舳倉島のことを思い出しました。
重ねてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。(※以下略。)
11月11日
※は西山。


もう1つは三一書房刊『日本民俗集成』第十二巻北陸編(2)である。
「序」を高桑氏が書いている。

第十二巻序


                   高桑守史
 本巻は、先に刊行された第十一巻北陸編①に所収された新潟県・富
山県にひきつづき、北陸編②として石川県・福井県に関する九編(石川
県四編・福井県五編)の民俗誌によって構成されている。
 本巻であつかわれている石川県・福井県律令体制下においては、越
の国の中でも共に越前に属し、また真宗王国としての共通性もあわせも
っている。このような歴史的背景から古来より人や物の交流が頻繁に行
なわれてきただけに、民俗の面においても、両者の間に共通性や類似性
を見い出せるものが非常に多い。
 しかし一方で、県内各地域では、それぞれの生活環境を通して醸しだ
されてぎた独自の民俗もまた多く確認することができる。
 石川県は、日本海に突き出た半島部を中心とした能登地方と、霊峰白
山に源を発した手取川を中心とする扇状平野や白山麓を主な構成素とし
た加賀地方(金沢市もこの中に入る)に大別され、それぞれ独自の地域
性を保ってきた。他方、福井県は、一般には県央、県北部を中心とした
越前地方と、県南部の若狭地方に大別されるが、若狭に敦賀市を含めた
嶺南地方とその北部の山嶺北地方に分ける地域区分も用いられている。
 本巻でも、これら県内の地域性に注目し、石川県では奥能登(四柳
著)、口能登(浜野著)、金沢市(氏家著)、白山麓(上山著)、福井県
は、越前北部(光成著)、福井市(木村著)、越前南部(斎藤著)、嶺南
(橋本著)、奥越(佐野著)と、それぞれの地域を背景とした民俗誌を万
遍なく配列している。また民俗誌の舞台となっている地域も、農・山・
漁村、城下町、港町と、それぞれ異なった生活の有様を伝え、これを横
断的に読む読者にとって、同県でありながら、地域によってその多様な
生活のありかたを知る手がかりともなっている。
 本巻所収の民俗誌の原本の中には、手書ぎや謄写版による記録が含ま
れ、これまで、ごく一部の人の間でしか知ることのでぎなかった貴重な
作品も収録されている。光成魚の『美奈登』や、木村松之助の『木村松
之助手記』などがそれである。共に郷里に生まれ育った者の愛情あふれ
る眼差しで、自らの郷里の暮しの一端を記録している。これは本巻所収
の民俗誌に共通していえることであるが、その構成や表現が、まことに
自由で個性的である。型にはまった調査項目に基づく民俗調査報告書な
どではみることのできない、生き生きとした個性的な描写が、生活の細
部にまでいきわたっている。まさに艱難辛苦を共にしてぎた同郷者でな
ければ描きえない微妙ないいまわしが随所にみられ興味をひく。具体的
には本巻編集委員の一人、西山郷史が、「解題」の中でも触れているよ
うに、単に民俗語彙を記録するにとどまらず、生活の折々に人々の間で
交わされる言葉のやりとりや、春夏秋冬に対する人々の期待や忌避の感
情表現などの中に、それをうかがうことができる。
 これらは共に、民俗学が学問として成長していく過程の中で、どこか
で忘れてきたものであり、あるいは故意に圧殺してきたものである。近
年、民俗学の学問としての硬直化が叫ばれて久しいが、生活の中で培わ
れてきた豊かな言葉の世界を捨象してきたところにもその一因があるよ
うに思える。
 本巻は、近代以降の民俗学が学問の成立過程の中で人々の暮しの中の
何をとり、何を捨ててきたのかをわれわれに考えさせる。そして今振り
返える時、その捨ててきたものの大きさを嫌応なく思い知らさせられる
一巻ともなっている。

一九九七年十一月三十日  23,000円+税
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4月4日(水)還浄