平山敏治郎氏の能登島

次号の地消地産文化情報誌「能登」に、能登島の閨・無関と八太郎を書こう。
閨は能登民俗の草分けとでもいうべき平山敏治郎氏が、同地の皆善寺さんに在って調査なさったと聞いている。
名報告「ヒヲトル嫁」が生まれた風土―これも土徳の地というべきだろう―も一度見ておきたいとの思いもあって
まず閨・皆善寺さん付近、能登島町史調査時と道が変わってお側へ寄ることがなくなっていた曲・専徳寺さん、野崎・正願寺さん界隈を歩いた。
元道を通ると、この建物で聞き取りをしたのだった……などが思い出された。
南では、石垣田も思いだしたのだが、町史の時に撮った写真は、私が持っていてもいつか無用になるだろうからと、能登島学芸員をしている教え子にすべて渡した。
写真という思い出媒体がないため、あれだけ調査した能登島が遠くになっている。
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石垣田―南地内。
30年前は埋め立て新田の名残の、石垣が積まれていた。
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閨から穴水・能登町方面
敏治郎氏は、一月間、この海を眺めながら、思索を重ねたのだろう……。
大学院時代、大谷に平山氏が講座をお持ちだったはずだ…。
一度くらい聴講したのだったか、お姿を学園広場で見かけたのだったか、
その方の名を「能登」との関わりで知るようになったのは、いつのことだったろうか?