藩政期の道標あったー29日朝刊ー、真言二十一ヵ所巡礼

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よくぞ、、見つけなさった…の感。
今まで、珠洲には道標が報告されていないのではないか。
法住寺エリアは地蔵・庚申塔がいくつかあり、他地区と同様、台座が道しるべとなっているものもあるはずなのだが、袈裟懸け松一帯の庚申塔そのものも、私が関わった『伝説とロマンの里』ぐらいにしか触れられていないくらい、この分野の調査はなされて居らず、この道標は新発見である。

そばに地蔵さんが二体在り、地蔵さんは一里塚に近い役割も担っていたはずである。
藩政期には、諸橋明泉寺から法住寺にかけての、真言21ヵ所順礼があった。21日は弘法大師忌。
石動僧と同じく、法住寺僧も秋ずすめを行っていた時期がある。
これも、智識巡りと言ってよいと思う。

『伝説とロマンの里』より

第三章19 二十一ヵ所巡礼

穴水町明泉寺から能登町珠洲市内の上戸町高照寺(第十九番)、極楽寺(第二十番、廃寺法住寺境内)を巡り、法住寺(第二十一番)を結願所とする奥能登真言寺院巡礼があった。
宇出津回向(えこう)院の庵主(あんじゆ)だった中橋隆源尼の談によると、結願所の法住寺で、「阿字(あじ)の子が阿字のふるさと立ち出でてまた立ち返る阿字のふるさと」「有り難や吼木(ほえぎ)の山の岩かげに今に大師のおはしますとは」の御詠歌(ごえいか)を唱え、解散したという。
先の歌は、高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)高祖弘法大師第三番御詠歌、伝弘法大師作。次の御詠歌は、同第一番の御詠歌「有り難や高野の山の岩かげに大師は今におはします」をふまえたもので、伝慈鎮(じちん)大師作といわれる。
この巡礼に関しては、明治四十五年(一九一二)に明随という僧が著した「当国二十一ヵ所御詠歌」が残っており、これが唯一の資料で、詠っていた方言そのままに記してある。
たとえば「阿字の子が・・・」の歌は、「あじのこがあじのふるさとたついでてまたたちかいるあじのふるさと」であり、その前の二十番札所吼木山(ほえぎざん)極楽寺は「たまたまもこのミねいずるともがらねそのゐねしゐのゐねしよろこび」といった調子で、方言と古文が入り交じり、意味がとれないものもかなりある。
それで、ここでは、札所のみを紹介する。
なお二十一ヵ所の二十一は、承和(じようわ)二年(八三五)三月二十一日に入定(にゆうじよう)した、弘法大師の忌日・命日にちなんだ数字である。
一番諸橋明泉寺、二番山田霊山寺
三番寺分(てらぶん)平等寺、四番柳田安養寺、五番五十里(いかり)長福寺、六番柳田法花寺(法華寺)、七番小間生(おもう)本両寺、
八番宇出津(うしつ)長楽寺、九番同塩谷(えんこく)寺、十番真脇上日寺、
十一番山中満泉寺、十二番時長(ときなが)願成寺、十三番上村(かみむら)光明院、十四番木郎(もくろう)不動寺、十五番宮犬(みやいぬ)弥勒院、十六番秋吉(あきよし)清水(せいすい)寺、十七番布浦(ぬのうら)薬師寺
十八番松波神宮寺、十九番上戸(うえど)高照寺、二十番吼木山極楽寺、二十一番吼木山法住寺
この内、十八番神護寺と二十番極楽寺が退転している。

このところ、私の肩書きは
能登の)民俗(学)に詳しい、真宗大谷派西勝寺住職
である。