「誰に焦れて…」碑ー「奥能登ブルース」大月みやこ氏、作詞:高橋掬太郎氏、作曲:飯田三郎氏
誰に焦れて
木の浦つばき
紅く咲くやら
燃えるやら
逢うて別れて
思い出だけに
生きる女の
身が哀し
あの夜のうた
あの夜のうた
奥能登
ブルース
高ーーーー
文面は、これだけの碑である。
横にも碑があり
それには
昭和四十三年三月建立
高屋町一同
とある。
さて、これだけの情報でどこまで分かるか?
高橋掬太郎(1901~1970)氏の名も、この碑からは読めないと思う。郎は、ーとしか見えない。
この碑が建った昭和43年(1968)から、数えで50年目だ。
当時は、これだけで全てが分かったのだろうが、50年の歳月は長い。
高橋掬太郎氏は、根室の国後に生まれ、父の故郷である岩手県沼宮内を故郷としていたそうだ。釧路で育ち、釧路商業学校を中退し、啄木が勤めたことのある函館日々新聞社に入社。そこでの昭和6年、『酒は涙か溜息か』(8月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]でデビュー。
その後も、
『並木の雨』(昭和9年8月)[原野為二作曲、歌:ミス・コロムビア]
『船頭可愛や』(昭和10年7月)[古関裕而作曲、歌:音丸]
『雨に咲く花』(昭和10年12月)[池田不二男作曲、歌:関種子]
『啼くな小鳩よ』(昭和22年1月)[飯田三郎作曲、歌:岡晴夫]
『高原の宿』(昭和30年4月)[林伊佐緒作曲、歌:林伊佐緒]
『ここに幸あり』(昭和31年5月)[飯田三郎作曲、歌:大津美子]
『一本刀土俵入り』(昭和32年4月)[細川潤一作曲、歌:三橋美智也]
『古城』(昭和34年7月)[細川潤一作曲、歌:三橋美智也]
『石狩川悲歌』(昭和36年11月)江口浩司作曲、歌:三橋美智也]
などの曲を書いた。
それだけに、自筆歌碑は珍しく
あとで触れるように、七尾城山資料館前に「古城」「あゝ七尾城」の歌碑があるが、それらは高橋氏に碑を建てる許可を得て、書は、地元の方々のものである。
砂取節碑
これも高橋掬太郎氏の字
七尾城山資料館前の碑
「古城」「あゝ七尾城」の碑があるが、書は地元の人々。
「古城」碑
昭和38年10月2日、七尾城史資料館の落成開館式が第22回七尾城山まつりが行われた。
その時、除幕式もあった。作詞:高橋掬太郎、三橋美智也が歌ってヒットした「古城」は、七尾城のイメージによく合うので、高橋氏の許可を得て建立したもの。
字は池田文夫という方。
昭和41年10月23日、七尾城まつり25周年を記念し、高橋掬太郎氏を迎えて「あゝ七尾城」碑の除幕式が行われた。書は高木南風という方。(以上『七尾の碑』より)
作曲:飯田三郎、歌手:大月みやこ
大月さん(と書く)は私と同学年で、「奥能登ブルース」を歌ったときは22歳だった。
彼女が「女の港」で30万枚のヒットを飛ばし、紅白に出場したのは、それから15年後、37歳の時である。
作曲の飯田三郎(1912~2003)氏も高橋氏と同じ根室商業学校を出、2人で組んだ「啼くな小鳩よ」(歌手:岡晴夫)「ここに幸あり」(歌手:大津美子)などのよく知れられた曲がある。
今となれば、これほどの大物たちによる曲が作られ、碑まであるのかが不思議だが、
いつも顔を出しておいでる石材店会長さんにこの話しをしたら、
なんと、42歳の時、父君を手伝って碑を建立なさったのだという…。
そして、この碑が作られた背景も聞くことが出来た。
能登ブームだったのだ。
除幕式に大月さんの姿があったことは、父君が素敵な人だったと興奮気味に話しておいでたというから、間違いないだろう。だとすれば、飯田三郎氏の色紙が当寺にあるのは、当寺で飯田氏の講演会があった可能性の方が強い。
名作を「往く」ー大月みやこ「奥能登ブルース」
楽しい謎だ…。