真宗と権現「この人に聞く」ー朝日新聞石川版ー

なぜ、真宗地帯に大きな祭りが多いのか…を考える参考に
2013年8月26日の載せた朝日新聞の記事を再録。

今朝(2013年8月26日)、紹介された。
記事をお書きになった藤井さんは、7月26日に取材にこられたのだが、
文化・民俗に対する造詣が深く、質問も的を得ておられ、話しがはずみ、3時間ばかり時を共有した。
さすがに
綺麗にまとめられている。
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記事のPDF

取材日

前日の25日、富山県猪谷、井波、城端、用宗に日帰りで行ってきた。
朝は、毎日5時半頃から道路に散ったタブの葉の掃き掃除をしている。
その後、境内で行われている小学生たちのラジオ体操に混じり…
暑さ、しゃべり疲れ…。

真宗の住職が「祭り」を語る意味

慶応4年(1868)の「神仏判然令(分離令)」、幾度かの戦争を経て、神々の世界と真宗教義にとの間には、より齟齬をきたした部分がすくなからずあるが、
私たちの周にある神々・神社は、
『諸神本懐集』(元亨4年・1324存覚上人著、伝法然上人著)に記されている権現(垂迹神)を祀る権社であって、権社としての神社が寺院近く、あるいは同じ集落内に存在する。
『御伝鈔(親鸞聖人伝絵)に登場する箱根権現、熊野権現はその当時の代表例で、
その世界から「祭り」を見ると、根底に「報謝」があり、そして願いがあることに気づかされる。
17願(説我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚)からも、神々との関係が考えられるだろう。「咨嗟」は褒め称えること。

20170831日追記
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miku 2013/08/26 18:16 ど~んと一面(?)の記事、とても内容の深いものでしたね。記者の力量を感じました。

☆神を背負う太鼓山が共同体を守る役割を果たしている・・・
☆巨大な山車をひく祭りは、浜を塩田にするため、
砂地をしめる意味があった・・・

なるほど・・・
とても新鮮に感じました。

umiyamabusi 2013/08/27 09:10 付け加えますと、
○田の道路際は日当たりがよく、
そのため、重要な苗代田として利用していたエリアです。
経念の神社は、気多と同じく本地が地蔵菩薩さんです(知っている人はほとんどいません)。
○現在伝わっている国指定の「揚浜塩田」は「塗り浜」といって、まず粘土で固め、その上に砂を敷いて作る塩田ですが、広い砂浜が続く内浦の海岸線では、砂浜そのものを固く締めて塩田として利用していたようです。塩造りの季節が終わって塩田を休ませるときに行う作業…と収穫の秋があいまっての大きな曳山です。
○途中に書いた、「取材日」は、疲れた顔だなぁと思ったその理由を、いろいろさがし出した、見栄っ張りのしょうもない言い訳です。』

が載った。
mikuさんは、昨年・2016年8月12日に、74歳で「いのちの故郷へ還」っていかれた大浦静代さん(郁代さんの母)である。

記事本文

この人に聞く 祭りをする意味は

西勝寺(珠洲市)住職 西山郷史さん(66※当時)

夏から秋、能登では毎週のように祭りがある。過疎で規模を縮小しながらも、なぜ祭りは何百年も継続し、地域共同体のなかでどんな役割を果たしてきたのか。能登の民俗にくわしい、珠洲市・西勝寺の西山郷史住職(66)に聞いた。

キリコや山車の祭りは、人々の生活とどんな関係があるのでしょう

 たとえば経念太鼓山(珠洲市)の山車は幅6尺で、江戸時代の公の道の幅です。こっそり道を削って自分の田を広げる人がいるが、山車をひくことでその部分を潰してしまう。神(権現)を背負う太鼓山が共伺体を守る役割を果たしています。
 また、燈籠山祭り(珠洲市)の山車は、以前は毎年、土台から組み立て、藤のツルで締めました。年に一度、藤を伐採することで山がきれいになりました。砂浜で巨大な山車をひく祭りは、浜を塩田にするため、砂地をしめる意味があったと考えられます。

「あえのこと」などを復活する動きもありますね

 「あえのこと」という名は実は大正時代にはじめて文献に登場しており、「田の神様」「あいのこと」と、地域によってさまざまな呼び名があります。
 「あいのこと」というのは秋祭りと正月の「間の行事」という意味だと思われます。

 また、12月に神様を家に迎えるのは、本来はタ方でしたが、テレビ放映に合わせて午後2時ごろにするところが増えました。多少の変化は仕方ないけれど、本来の姿からずれていないか検証し続けなければ、名前だけの行事になってしまいます。

「本来の姿」を保つ意味はどこにあるのでしょう

 石崎奉燈祭(七尾市)は最近まで旧暦6月15日の満月の日でした。満月の夜は明るくて魚がとれないから仏事や祭りをしたのです。早船狂言(珠洲市)は、「こんな雲なら漁に出てもいいぞ」といった内容を盛り込み、ぞんべら祭り(門前町)は、田植えの手順を復習する内容を含んでいます。
 祭りは、生活の技術を体で覚える場でした。能登で集落ごとに祭りがあるのは、生産性が高く幅広い文化を持っていたことを示しています。
 祭りが伝えた伝統の知恵は、機械化で見向きもされなくなりましたが、電気や時計がない時代の知恵は、いつか役立つ時がくるかもしれません。

祭りの本来の意味を伝えるため、どんな取り組みがありますか

 戦前の国家主義への反省から、戦後は地域教育に力を入れ、学校の先生が子どもを連れて郷土について調べました。だが今、地域に入って指導できる先生がいなくなり、研究者も現地を歩かなくなった。地元の子が農林漁業の技術を学んだ水産高校や農業高校がなくなったことも、地に足の着いた祭りを継承するうえで痛手です。
 本来の意味が薄れたとはいえ、能登は伝統行事がよく残っています。能登にこそ県立博物館や研究機関を設け、文化や行事を記録、解説する本をつくっていく必要があります。(聞き手・藤井満)

にしやま・さとし1947年、珠洲市生まれ。

大谷大学大学院で国史学を学んだ後、県立高校の国語教諭に。91年に退職後は珠洲焼資料館館長などを務めた。著書に「蓮如真宗行事 能登の宗教民俗」など。昨年は、飯田高校生が通う奥能登の伝説や見どころを紹介する飯田高校百周年記念誌「伝説とロマンの里」=写真=の制作に携わった。


※村共同体の行事があり、ここで神と言っているのは、藩政期の権現であり、当時、司さどっていたのが石動僧だった。
 彼らは、僧正巡りと秋すずめ(収納)と年2回国々を巡り、僧正巡りの例では、4月8日に嶽山開き(高洲山)、12日に高屋刀祢で祭祀を行い、17日にはドウブネに乗り、宇出津の澗へ法螺貝を響かせながら入ってきた。上田家では座敷床に仏絵を掛け、祈祷し、その晩は上田家に泊まった。
翌18日ー現在の祭礼日ーは町中を巡り、発足の時、粽を昼食としていただく、とある(上田家系図→石動山僧正御廻リ(PDF))。
 上田家は山廻り役などを務めた藩の役人家で、曹洞宗檀家だったが、真宗大谷派西勝寺との縁組みによって、複檀家となった。現在は真宗門徒である。
 平安仏教の鎮護国家・五穀豊穣を伝統的に担ってきた石動僧(山伏)世界の修行面を緩やかにした神主を司祭者として営まれているのが、現在の祭りである。
私の印象では、神主には、山伏から神主になった家と、明治期に神主に取り立てられた家、元々神主家があり、元山伏家には今も朝夕仏に手を合わす日々を送っておられる方がおいでになり、戒というか、律した日常を過ごしておられる方が多いような気がする。

 共同体行事から、一族・家の報恩講、個の信心へと地域行事は絞られていく。