石動山(石動五社権現)ー散策
セキドウサンは有名だし、能登そのものの山として各地から望めるのに、実際に石動山を歩いた人は少ない。
9月26日(火)にバスを仕立てて行ってこようではないかー
という話が進んでいる。
そのためには、ともあれ現地への道を確かめ、歩いてみよう、ということで
4人で行ってきた。
私以外は、石動山ーといってもイメージが湧かないとおっしゃる方々とである。
私の遠い記憶ー羽咋工業生徒たちと遠足で歩いたー、当時の主要道
二宮口から、
今日は黒塗りの高級車が行く。
石動山の山号由来となった「動字石」。
天漢石ともいい、天から落ちてきた石によって、山は揺れ動いていたが、
泰澄大師が717年初夏、この山を訪れ石動を鎮めたという。
白山が同年の6月18日、伝泰澄開闢。
そのまま縁起をいただけば、石動山の方がやや早く、今年1300年を迎えていたことになる。
神仏判然令以降の石動山の歴史を思えば、1300年のを大々的に言えないというか、手に余る現在があるが、
今日歩いてみて、これほど濃密に宗教遺跡が集約されているところはないように思えた。
広いのである。
そして「石動山を護る会」の方々の、地道な活動がブナ林散策コースのいたるところに感じられた。
もとの神輿堂
現在の伊須流岐比古神社。
神輿堂がこれほど大きいのは、五社権現分ー五基の神輿が収まっていたからである。
石動山と伊須流岐比古との関係が分からないとの質問があった。
訓読みがイシユルグ(いするぎ)、音読みがセキドウである。
鰯ヶ池。境内右手
石清水なのだろうが、氷見虻ヶ島と関わる伝承があったはずである。
五智院跡石層層塔群。
一点一点が歴史の重さを語っている。
大宮坊内層塔笠部
智徳上人(古縁起)廟へ。
行ってくる元気なし。
多宝塔跡
梅宮(現在、七尾市三島町金刀比羅神社本殿)跡から山頂道。
山頂。
伊須流岐比古神社本殿になっているようだ。
タブの葉の道路掃きが唯一の運動である私にとって、坂道続きを歩くのは極めて困難だった。
こんなにも坂道が続くとは…、というより「鹿島町史」の調査、能登国三十三観音調査などで、かつて訪れた頃は、苦にせずに歩けたのだ。
行者堂。
修験の山で、ただ行者で通ずるのは、修験堂の祖・役の小角(えんのおずぬ)である。
小角と身近な所で関係あるのは、曽々木福穴…との説明になると、聞く方も混乱。
この建物は最勝講(さいすこう)天神社拝殿として残った。
平成元年、元地で復元した。
「石動山資料館」の法宝物は、すごく充実している。
何度も来たことがあるはずなのに、こんなにも多く、広がる資料が揃っているのか、とあらためて驚いた。
「石動山を護る会」の方々が整地、枝払いなどをなさっており、ここで出会った方もおいでた。
CDをいただいた。
(歌が)上手い!
嗚呼 石動山 能登かしまよいとこ たぁたーず
道案内を間違えて、コロサ多根湖に出てしまった。
多根集落はかなり遠かった。
七尾城山道に出て、町で食事。
道神社拝殿
石動山建築の粋、氷見市中田の道神社拝殿。
もと開山堂。
享和元年(1801)大窪大工によって建立。
明治10年(1877)当地に。
湯立て釜
宝篋印塔
大境洞窟住居跡・国指定、氷見市
大正7年(1918)、国で初めて洞窟遺跡として発掘調査。
大正11年(1922)国指定。
洞窟の神社は白山神社奥宮。
石仏群
石動山と真宗
子供の頃、怖い言葉があった。
いうことを聞かないで、何時までも外で遊んでいると言われた、「人さらいにさらわれるぞ」。
もう一つが「泣く子も黙るいするぎ法師」という言葉である。
こちらの方は、「いするぎの坊さんに連れて行ってもらうぞ!」があり、大人を対象にした言葉として、泣く子も黙る…があったようだ。
あとで、七ヶ国、とくに加賀・能登から収穫を集めて歩いた石動法師の「秋ずすめ」の記憶が、明治以降もカ語られていたことを知ったのだが、
あれほど勢力があった石動山(天平寺)が、明治に瓦解したとは言え、麓の鹿島町はほとんどが真言宗檀家で、石動山だけが天平寺を残して無くなった、と思い込んでいた。
それが鹿島町のほとんどが真宗門徒であることを知ったのは、うかつにも鹿島町史のために鹿島町に調査に入った時なのである。
御崇敬を始めとする門徒集団の力、講が数多く行われており、鹿島町史では全集落に関する「講」行事を取り上げた。
それとは別に、九学会の能登調査に関わった桜井徳太郎氏の著名な論文があり、結論を言うと、3月24日の石動山蓮華会が廃仏毀釈(判然令)によって無くなり、それを麓の真宗寺院が受け継いだのが「蓮如忌」である、としたのである。
蓮華会(レンギョ会)、レンギョ忌と発音も似ているとも、その論(「真宗信仰と固有信仰との習合」(『日本民間信仰論』))には触れている。
ところが、麓の寺院では蓮如忌は行われておらず、同行さんたちも「蓮如忌」の言葉もご存じなかった。
そこで、金沢の蓮如忌を舞台に能登の例をあげた「蓮如忌」考一を『都市と民俗研究NO6』に書いた。1984年・昭和59年のことだから、37歳の時である。
これは後、『蓮如と真宗行事』1990年に載せたが、今見直してみると、かなり省略している。
項をあらため、その時の文を載せる。