寺家二十三夜踊りー二十三夜待ち、地蔵盆、三崎権現ー

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彩色板絵六地蔵も著名

板絵彩色六地蔵像 六面一対
頭部三角形、高さ六面とも74センチ、.上幅28.4センチ~31センチ、下幅25.5センチ~28.4センチ、厚1センチ。
長方形木板の頭部を緩い三角形に切り、板表面最大限に六地蔵立像を彩色に描いたものである。六道の衆生を化導する六地蔵は、中世以降広く民間で信仰され、その遺品は石仏に多いが板絵像の遣例は稀である。(『珠洲市史』第二巻、桜井甚一氏)


寺家二十三夜踊りについての講演依頼が翠雲寺(天台宗)御住職からあった。
寺家の二十三夜踊りに関しては、『能登志徴』に、「能登名跡志」(1777年、太田道兼)を引用した「能登はやさしや…」に触れて、三崎の雀踊りと紹介されており、二十三夜待ちのこの日、近郷から大勢の人が集まって踊り明かしたこと語り継がれている。
先日(22日)お話しした宝立町法住寺でも庚申塔が建っており、袈裟掛け松近くの台地で二十三夜待ちを行っていた。そこから見月(見附)島に遅く月があがるのを待ったのである。
輪島の三夜も二十三夜で、三夜踊りが行われている。
二十三夜から24日にかけて六斎日の24日、地蔵菩薩の縁日で、本地地蔵、権現気多の地蔵盆でもある。
翠雲寺さんはもと天台・高勝寺で、東に高倉宮、西に金分宮の三崎権現(珠洲権現、三崎明神)、現在の須須神社エリアにある。
見方によっては本地仏延命地蔵菩薩を中心とした一帯が珠洲三崎なので、その地蔵堂でお話しできることは、ちょっとした興奮だった。
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現地へ行くまで、上記のような情報と、『写真アルバム 能登半島昭和』に載せた、かつて行われていた寺家の踊りの写真しか無く、
講演の後、踊るのだろうか、どんな人が聞きに来ておいでるのだろうか、などそのあたりは全く見当がつかなかった。

写真解説
多くの人々でにぎわう須須神社境内での盆踊り。浴衣姿の子どもたちや踊る人たちが見られる。声自慢の音頭取りたちが交互に、段物と言われる「鈴木主人(もんど)」などの長い唄を歌い、踊り明かした。その合い間に踊ったのがチョンガリである。
この舞台は二十三夜踊りにも、そのまま用いられる。(珠洲市昭和30年代)

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地蔵堂では、翠雲寺住職だけで無く、琴江院(臨済宗国泰寺派)、吉祥寺(同)、天崇寺(曹洞宗)御住職が前列で、後ろには御詠歌講?の方々が御詠歌を挙げておいでた。その後、太鼓のリズムに乗って観音経があがった。
太鼓が音木代わりに用いられるのは、かつて吉祥寺さんで出会ったことがあるが、もともと法燈派の系統を引いているので、その流れでは無いか、と御住職と話し合ったことがある。

像高3.3メートル。御立ちになれば丈六仏となるはずの木造寺蔵菩薩には赤いライトがあてられ、像からはたくさんの猿の子がつながる縄が伸びている。
その下で、女性たちが御詠歌を称えておいでる。

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暑い夜のためなのだろう。
堂の外に椅子が並べられ、そこに檀家さんたちが座っておいでた。

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これから講演と、御住職が説明。
20時半から講演を始める。
スポットライトが明るすぎて、人が全く見えず、皓々とした灯りの中で一人言を言っているようなことにあいなった。
ライトの向こうは闇で、目線をどこに置けばいいかも分からない。少し角度をずらしてもらったら、御詠歌の方が二・三人見えたので、その方々に話すようにして約40分。
先輩、同級生、教え子、西勝寺から嫁がれたり、お婿さんに行かれた方々もおいでになったのだが…。
9時10分頃、雨が…の声が聞こえたので、区切りのいい所で終える。

二十三夜が、踊りはないものの、このような形で続いていたことに対して、ちょっとした感動の中で帰宅した。
22時近くになっていた。

神祇と権現

このところ、真宗は神祇不拝のはずなのに、能登(に限らず)に祭りが盛大なのはどうしてか、の問いを受け、考えている。
不拝の神祇と権現は、性格が違っている。
祟り、呪いとかの性格が強い「実社」系が神祇不拝の神祇で、権現は本体が仏だから、権現神は門徒の代表のようなものだ。
盛大なのは、海山幸と勤勉、交流による富の蓄積が盛大な出し物(風流)を作り上げた、交流がさかんだったことが、様々な風流に結実している。

明治に入るまで、真宗地帯の神々は全て権現であって、権現を用いない社は薬師社や十二社のように直接仏名を名乗ってきた。神号の奥には仏がましましていたのだ。

このところ、須須神社を語ることはあっても、三崎権現の視点が抜けていたような気がする。
あらためて「権現」を身近に引き寄せ、権現の具体相を訪ねさせてくれた先輩の問いに感謝する。
付け加えるなら、蛸島山王権現・現在の高倉比古神社が、一説に三崎の境界、もっとも外れにある神社だった可能性がある。
その圏内には雲津白山があり、薬師道もある。
蛸島山王の森の頂上にある奥宮を調査した際、将軍地蔵らしき像があった。
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※当時のノートがないのではっきりしないのだが、若山荘調査の折に本谷文雄、小西洋子氏と1999年10月に調査したはずである。

蛸島は荘域外なので、その成果は『若山庄を歩く』には生かされていない。この2枚以外にも地蔵、観音、色彩狛犬などが認められたものの、『珠洲市史』に載っておらず、市史には神鏡と瓶子が掲載されているが写真は無い。共に調査した方々もすでに退職されており、あらためて調査が行われることもないだろう。
関わったものとして写真だけでも記録化しておくべきだと思うので、掲載する。
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銅造神鏡
鋳銅製。裏面周囲に四角縁、上方左右に鐶座を鋳出する、
銘文=裏面に鋳出。
能州珠洲
丙正徳六歳
日吉山王宮
申八月九日
蛸島
鏡を納入する丸箱に、この鏡覆を文政九年(1828)八月に河端仁石衛門が寄進したと墨書されている。(『珠洲市史』)

※正徳6年は1716年
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木製黒漆塗瓶子 二口一対
総高32.8センチ、肩張23.6センチ、高台16.6センチ。
木製挽物黒漆塗。頚ば短く、.肩に適度の張りをもたせ、腰下で細くひきしめる。口縁に玉縁を廻らし、花文形朱漆塗の蓋栓を付けている。全体的にバランスの整った室町末期頃の典型的な木製瓶子である。部分的に漆の劉落もあるが、損傷もない佳品である。(『珠洲市史』)

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なお、三崎の地蔵さんは延命地蔵だが、気多の本地は将軍地蔵ということになっている。
一考を要しよう。