真宗と(権現)祭ー皆月山王祭ー

10日、11日と門前町皆月、皆月日吉神社夏季例大祭が営まれた。11日が本祭り。今朝の北陸中日新聞によると、

祭りを仕切る青年会のメンバー約30人のメンバーのうち地元に残っているは3人のみ。ほかの大半は祭りの直前に帰省して準備をしてきた。

と書いている。
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北陸中日新聞
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北國新聞
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2004年(平成16年)8月10日
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同年8月11日
皆月日吉神社周囲を山車が三周(確か)して宮入となる。
この手前が、真宗大谷派善行寺
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昭和51年、川渡り
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昭和40年代
(以上2枚『写真アルバム 能登半島の昭和』西山編集・執筆より)


コンゴウマイリ

山車が動き出すのが午後2時、実はこの日の午前中、皆月善行寺ではコンゴウマイリを行っている。
お斎を呼ばれ、祭り見学。11日を盆の入りと意識している行事で、コンゴウは嫁いだ人たちが子供と共に実家へ帰り、実家のなき親たちを通したお参りをする行事で、コンゴウのないところでは個々のお墓や内仏のでの盆経を、一斉に行うものである。

コンゴウマイリ(『日本民俗大辞典』平成8年刊、執筆西山)

能登半島中央部・富山県氷見地方で行われている真宗行事。門徒宅から他門徒宅へ嫁いだり婿入りした人を、寺側からは孫門徒・孫檀家といい、孫門徒が実家の親が亡くなってから、毎年決まった日に実家の手次寺に参詣することをいう。コンゴウの中心地帯では、八月一日・七日に集中して行われていることから、盆入りの行事と見なされるが、周辺部では、八月十五日、七月一・七・十五・三十一日、六月の田休み期の一日、報恩講・祠堂経・修正会の一日をあてたり、親鸞の御命日御講や聖徳太子忌と兼ねる寺院もある。コンゴウは、魂迎と表記する例が多いが、魂供・金剛・魂合・魂倶・魂具・魂仰・魂講・今遇などで表すほか、コンゴウ・コングと呼ぶだけで、漢字表記を避ける寺院も多い。これは、真宗教義上「魂」が認められないためで、信心獲得の金剛心のコンゴウが本来なのであろう。コンゴウには、参らなければならないものとされ、「親のコンゴウにまいらんものか」といった戒め言葉がある。「コンゴウメシナノカ」といって、法要後のお斎料理を食すれば七日間腹をすかさないでいられるともいう。コンゴウには、孫門徒の他、門徒も参詣するため、最も参詣人の多い仏事となる。能登半島先端部では、報恩講などに孫門徒が参るのを、オヤノマイ(親の参り)という。この行事は、江戸時代に奨励された先祖供養や、半檀家(複檀家)制の名残をとどめている。真言宗には八月一日の金剛会がある。


『新修門前町史 資料編6 民俗』2005年11月刊より
第二節寺院行事と在所講

(一)門前町の仏教
 門前町には真宗大谷派寺院が四二ヶ寺、真宗系寺院が二ヶ寺、曹洞宗総持寺祖院を含め四ヶ寺、真言宗日蓮宗がそれぞれ一ヶ寺ある。真宗王国といわれる能登にあっても真宗寺院、特に大谷派が多い地域である。

(二)真宗寺院における行事

コンゴ

真宗コンゴウの風習のあるのは能登半島中部・氷見市五箇山ぐらいで、全国的にも珍しい行事である。嫁いだりムコ入りした人が、実家の親が亡くなった後、毎年決まった日に実家の手次ぎ寺に参り、お斎につく。門前では八月七日に行うところが多い。
 どこそこの家の手次ぎ寺はどこそこであると、当たり前のようになっているが、一家が一寺の門徒(檀家)になるまでには、長い歴史と紆余曲折があった。どこが違っていたかというと、一般に寺檀制度が成立していく中で見えてきたのは、嫁いだ人が嫁ぎ先の門徒(檀徒)にはならず、一生実家の手次ぎ寺に所属したのである。この有り様は、家内労働の点からも不都合なものであり、幕府や藩は、一家は同じ門徒(檀家)のはずであるとの触れををたびたび出している。元禄一〇年(一六九七)には、藩から、養子、婿を問わず家の宗旨を継ぐように命令が出ている。最後まで実家にこだわったのは婿、養子だった。
 このことに関して、黒島の中谷家文書の中に、慶安二年(一六四九)、「南北坊主中大町弘誓寺に集来仕候而、萬事且那之致改・・・」と、九ヶ寺と三人の僧によって、例えば、夫婦が寺違いであって、子供が一人しかいない場合はどちらにつくべきか・・・など細かく取り決めた、珍しい申し合わせ文書がある。
 一家一寺が、自然と受け入れられるようになって初めて、家が確立したともいえる。この家族の中に複数の手次ぎ寺が混じっている制度を、複檀家あるいは半檀家といい、愛知県三河には男門徒、女門徒という半檀家制が残り、能登においても七尾東海岸珠洲などに僅かではあるが、その遺風が見られる。
 このコンゴウは、実家とのつながりの強い仏事で、半檀家時代の名残を伝える貴重な習俗でもある。盆月の初め、七日盆に多いのは、共同体に関係するすべての人によって盆を迎える現れであり、本堂で一斉に墓参りを行う行事とも見なせる。そのためコンゴウには、魂迎、魂供、金剛、魂合、魂倶、魂仰、魂講、今遇など、様々な文字を当てている。盆月と関わる行事であることが、これらの表記からも窺えるが、最も多い魂迎は、漢字の成り立ちからはあり得ず、元々は金剛信心につながる金剛だったのであろう。一般に分かりやすい広い意味での霊魂観がこのような表記となって伝わってきたのだろう。
元々七日だった皆月善行寺が、一一日に七浦浦上地区のコンゴウを行っているのは、やはり七日の行事だった皆月山王祭りが、盆近くの一一日に日をずらしたことによるものである。お説教を聞き、コンゴウのお斎につき、祭りを見て帰る。このような豊かな一日が今も続いてある。
八月六・七日以外では、お盆中、報恩講中などにもコンゴウマイリが行われる。一方浦上地方などでは行っていない寺院もある。

※本文の最後、「八月六・七日以外では…」部分は、下書きでは「八月六日 高根尾寂静寺。七日 深谷西慶寺、鑓川長順寺、四位真善寺、定広廣照寺。 七日・八日光琳寺総門徒(別経中)一一日皆月善行寺(七浦地区)。一四・一五日善行寺。一五日中谷内碧雲寺、一一月一五・一六日光琳寺仁岸地区(報恩講中)、十二月一五日、一七日中谷内浄方寺など。」と書いた。
こだわる方なので、おそらく全寺院の調査ではなかったため、本文のように書き換えたのだと思う。

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皆月日吉神社春祭り。左に善行寺本堂が見える。
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善行寺坂から海を望む2012年9月25日撮影
この話題とは関係ないが、この墓地に教育評論家尾木直樹尾木ママ)氏の祖母家のお墓がある。皆月日吉神社の夏祭りは7日盆の日に行われていた。それが盆の入りで、帰省しやすい11日に移った。
それに合わせて、盆参りであるコンゴウマイリも移動した。

お参り、お斎、午後は羽を伸ばし、思いっきりエネルギーを解放させ、収穫期へと向かう。
その楽しみは、藩政期中期には、踊り、相撲が中心だったが、キリコを担ぎ、山車を引き、獅子舞を舞う共同体全体が楽しむ、時を過ごすようになった。

一方、石動法師や神官は、国家・藩の奉幣料や領民からの安定した収穫米を受け、国家仏教から続く、五穀豊穣・鎮護国家の加持祈祷を行っていた。
それが、祭りに関わるようになるのは、国家的保護がなくなる経済的理由による。

現代には、二つの要素が同じ日に行われており、その元の方の仏事が行われていることが、派手好みのマスコミによって、一般に知られることはなくなった。

私が調査した中でも、そのような行事がいくつかあった。
テレビはあまり見ないので紹介されているのかも知れず、マスコミでとしておく…。

神事しかマスコミに紹介されない行事

須須神社の的打ち神事ーこれは釈迦涅槃の日に行われる。午前中は天台宗翠雲寺(旧高勝寺)で涅槃会が営まれる。午前仏事(涅槃会)、午後、的打ち占いと書いた新聞記事にであったことがない。

○お出で祭り・お帰り祭り(平国祭)
気多神社の。もと七尾にいた城主・畠山氏の元へ出向く行事だった。
暑さ寒さもお出でまで、といわれるのも、暑さ寒さも彼岸までから来ており、彼岸中の行事である。
私は全行程を共にしたことがあるので、その時の印象では、特に鹿島町を通るとき。晴着姿の女性が目立った。
それもそのはず、寺院(沿道は全て真宗寺院)では、午前中に彼岸会・お説教、(お斎)があり、午後にはお帰りの行列を迎え・送るのである。
新妻は晴着を着て彼岸のお参り、午後の行列を迎え送るので、村入りを仏神に報告する日でもある。
寺院行事が紹介されたのは見たことがなく、お出でだけが紹介されている。