真宗と神祇(権現)ー都市の祭り・真宗地帯の祭り、白山比咩神社と白山権現ー

金沢中心部に出し物(キリコ、山車、獅子)を出す祭りがないわけを
青年団芸能大会講評でお話しした。そこでは、金沢旧市内に、風流(キリコ、山車、獅子)を出す祭りがないのは、城を取り囲む一帯に大きな音がしていたら、軍事機能が保たれないためだ、とお話しした。
火急を知らせるのは、烽火、鐘、太鼓の音とリズムしかなく、そこに能登の祭りのような鉦・太鼓・笛が鳴り響いていれば、敵が目の前に来ていても気づかない。
もちろん、武士の住むエリアは、領内安全のためにいい言葉ではないが、年中、臨戦態勢にあるので、労働の合間の時期や、予祝、収穫を祝う農・漁村とは別の時が流れていたのである。
蓮如上人の「侍能工商の御文」に描かれている侍社会である。

音の重要性については、
かつてソフトテニス部(当時は軟式テニスといった)の顧問をしていたとき、ある時間帯、試合が中断されたことがあった。理由は重要人物の乗っておいでる列車が通過する為だった。
ライフルの音とボールを打つ音とが似ているらしい。ライフルの音は聞いたことがないが、そう言われれば上手い選手同士が打ち合う音はパーンパーンと乾いた音がする。
その時、藩唯一の城下・金沢中心部に大きな祭りがない理由が、身体で理解できた。

『おもしろ金沢学』

2003年8月25日に刊行された『おもしろ金沢学』という本がある。
私も執筆したのだが、日が経っていて何々書いたのか覚えていず、執筆記録を見て、「ネンネ」と「ボンチ」の違い、旧市内は「謡」、新市内は「民謡」、心の中にあった城下の境界
の3編を書いていたことを思いだした。
後の2編は、ここで紹介するので気づくと思うが、城下中心地は静かでなければならなかったことを、意識して書いている。
 
他の項目を見ると、ズバリこのことをテーマーにした「金沢の祭りが小規模なわけ」という文があった。そのことに気づいていたのだから、ひょっとして私が書いたのかも知れないと読んでみたのだが、私ではなかった。
結論として次のようにまとめている。

金沢にも特筆すべき祭りはある。しかし町衆の活力を結集した祭りは、やはり存在しない。「百姓の持ちたる国」と言われた真宗王国、加賀百万石の城下町であったという金沢の歴史を浮き彫りにするようでもある。

本文中には城下からはなれた金石の祭礼を挙げ、それだけ自由に祭りを企画し、繰り広げることが出来たとする。すなわち侍の規制がないから自由な祭りが行われたのだと分析している。だとすれば、萎縮した祭りがあるはずなのに、それはない。

それよりも、真宗王国の城下であるから、特筆すべき祭りは存在しないと言っているのは、いかにも、と思わせるが、実体はその逆なのである。
真宗王国は、祭り王国なのである。
比較するのはおかしいかも知れないが、昭和10年頃の民俗地図で火葬地帯に印がついているたのは、真宗地帯だった。
今、キリコ、山車、獅子舞などの華やかな祭り地帯に印をつければ、かなりが真宗王国と言われているエリアと重なるはずである。
このことについては、今は詳しく触れないが、藩政期から門徒たちはお参りと踊りで騒いでばかりいると訴えられるほど、祭り好きだったのである(「御国政に付き申し上げ候帳冊」)。
その頃の社には神主はいなかったし、いたとしても反本地垂迹論を経てきた現今の神官とは、別の存在だった。

これからも、あちこちで祭り情報がマスコミを賑わすだろうが、山車、キリコ、獅子などの華やかな祭りが行われているほとんどが、元からの真宗地帯だということは、知っておかなければならない。

そのうえで、「神祇不拝」の宗教なのだから、祭礼とは関係が無い(はずだ)と、知識人や関係ない地域の僧たちが言うことが、的を得てないことを検証し、向き合わなければならないのだろう。
和光同塵」も聞かなくなって久しい。

神々は

第一には、権社の霊神をあかして、本地の利生をとうとむべきことをおしえ
第二には、実社の邪神をあかして、承事のおもいをやむべきむねをすすめ
第三には、諸神の本懐をあかして、仏法を行じ、念仏を修すべきおもむきをしらしめんとおもう。(『諸神本懐集』)

であって、親鸞聖人が否定したのは実社の邪神に分類される神である。

権社神は仏の垂迹であるから、弥陀の本願十七願の「十方世界、無量諸仏」の権現であって、その神々は、「ことごとく弥陀を咨嗟(褒め称えて)弥陀の名を称している存在なのである。
 突き詰めれば、御同朋になる。それを拝むとか拝まないということ自体が成り立つのか、成り立つとしても「神祇不拝」の「神祇」の意味するところを、時代を追って検証しなければならないのだろう。

真宗地帯にある神社というより、現社会に存在する神社はすべからく、権社的社である、が、司っているほとんどが神社庁に属する神官たちで、この方々は、真宗教義にはなじまない「祓い」を行う。




白山権現と白山比咩神社

今、白山開山1300年が話題になっており、8月9日は泰澄大師が開山したとされる旧暦6月18日であることから、白山比咩神社などで盛大に奉祝大祭が営まれている。
今日の新聞記事によると、白山比咩神社には全国の宮司ら約400人が集ったとある。
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ところが、なぜ6月18日なのか、については、どの記事にも見えないし誰も語らない。
6月18日は、九頭龍、白山比咩、その本地観音菩薩(十一面観音)の縁日なのである。泰澄が白山で観音に出会えた日であるから、縁日となったのか、そのあたりは問わないでおくが、泰澄大師、十一面観音とくれば、白山権現(観音)の垂迹神を祭る白山比咩神社を前面に出さなければならなくなる。

今回の場合、白山権現は、泰澄大師や縁日とともに姿をあらわしているのに、仏教(真宗)側からも気づいていないようだ。
そこで、仏教から見た権現史(神社史)というか、仏神交流史を整理しておかなければ、と思う。
真宗と白山についてもちゃんと知らせないと、門徒の氏子総代や議員さんたちも安心できないのではなかろうか。

なさなければならないのは、
個々の権現神社系の行事の様相(神社庁傘下となって同じような儀式になる以前姿)、
権現・本地の一覧、
結果的には寺院統合(修験道は除く)以上に、神社の統合が行われた明治中期までの動きで失われたもの・残ったものなど、
だろう。
仏神交流・離反史は真宗としてもなさなければならない研究だろうが、神社にとっても大切な分野だと思う。
神仏判然令までは寺院だったという神官家で。毎朝本尊前でお経をあげているという神官をお二人存じ上げている。

参考

旧市内は「謡」、新市内は「民謡」

金沢には多くの歌が伝わっている。その中でも、儀礼の歌と、盆踊り歌に伝統を感じさせるものが多い。
数多くの行事が集中する年の初め。最も重要な儀礼がキシュウだった。キシュウは、武士と村役人、地主と小作、船主と水主(かこ)といった主従が一堂に会する中世からの伝統行事で、吉書・吉初・吉祝・起舟などの字が充(あ)てられた。
知行主の武士宅へは農民が訪れ、予祝(よしゅく)(新たな年の実りをあらかじめ祝う)の意味を籠(こ)めた「田植え歌」を披露した。田植えは、農家にとって最も重要な行事で、華やかな早乙女(さおとめ)姿からも想像されるように、「田植え歌」の歌い方にも、極めて厳粛な作法があった。まず、田や苗を褒(ほ)め、水などのお陰で稲が実る様子を、賑々(にぎにぎ)しく唄ったのである。
船主宅では「めでた」が謡われた。「めでた」は、産み字(母音)を長く延ばす男の合唱歌で、歌い出しにアクセントを置くことや、三拍子の抑揚(よくよう)は、櫓(ろ)を漕(こ)ぐ動作と一致する。七尾・輪島・輪島崎の「まだら」や美川の「御酒(ごんしゅ)」、テンポは違うものの、輪島の「三夜」も同系統の歌である。珠洲市蛸島町「早船狂言」でも同様の歌が歌われていた。「まだら」の元歌は、幕府から加賀藩に伝わった「お座船歌」で、その年の航海の安全を祈って高らかに歌われた船歌が、加賀・能登の港々に名前を変えて伝わったようだ。
新市内、特に海の近く集落においては、建ち前では、先ず棟梁が「めでた」で口火を切り、結婚式では「めでた」で歌い始める、とされているように、現在では、儀礼の祝い歌となっている。
 
一方、旧市内での祝い歌は「謡(うたい)」である。「加賀宝生」とまでいわれる程有名な「謡」が、藩政期から現在まで伝わったのには、職人衆、とくに大工さんの果たしてきた役割が大きい。大工仕事は、建物全体を見渡しながら、しかも、寸分の狂いも許されない緻密さが要求される。落ち着いた「謡」こそが彼らの歌には相応(ふさわ)しかった。
また、職人衆は、寺院建築をもたらした聖徳太子に報謝する「太子講」を正月に営み、春の「蓮如忌」における卯辰山大乗寺山への山行き、土用の休み、建築儀礼の執行など、様々な職種の中でも、特に仏神との関わりが深い。
「謡」は、仏教音楽の声明(しょうみょう)そのもので、能の大成者、観・世(かん ぜ)親子は阿弥号を名乗って、浄土教世界に身を置いていた。そういう意味においても、職人衆と「謡」は、もともと結びつきやすい素地があったのである。

結婚式において、「高砂」を謡う場合には、「月もろ共に出潮の」を「満ち潮」「入り潮」に置き換えるとするのは、「お開き」と同じく、言葉を選ぶ感覚であるが、「船の中で謡を謡うと海が荒れる」という俗信は、「能」には怨霊が多く登場し、波静かな航海を願う海民にとって相容(あいい)れない内容のものが多かったせいである。また、歌は、それぞれの職能に応じたものであり、それを大切にしなければならない、ということをも語っている。

盆踊り

「盆踊り」は、金沢新市内の風物詩である。明治初期の書物に「盆踊りは田舎の踊りなり」と記すが、いざ戦さともなれば、家臣を集めるのに太鼓を用いなければならない城下にあって、「ドンと叩いた太鼓の音にあの世この世のヤレコリャ戸が開く」(戸水「南無とせ踊り」)賑やかな踊りを、夜通し行うことは出来るはずもなかった。侍の居住地あたりは静かでなければならない。そのためにも、鳴り物はせいぜい「鼓(つづみ)」程度の「謡」が奨励されたのである。
盆踊りを、医王山周辺では「ちょんがり」、といい、その他では「じょんから」「じょんがら」と呼ぶことが多い。この踊りは、願人坊などが広めたとされ、ジョン・カランの鉦(かね)の音が「じょんから」になったとされる。ところが、金沢では、その他に二つの由来が語られてきた。一つは「ジアンワラク(自安和楽・自和楽)」で、歌い踊れば、自然と平和で楽しくなる、という説。もう一つは「ジョウから(上(じょう)から)」教えて頂いた踊りである、との説である。「上(じょう)」は蓮如上人のことで、戸水地区の「南無とせ踊り」や、合掌の仕草(しぐさ)が交じる東原地区の「念仏踊り」も、蓮如上人を偲(しの)んで踊りが始まった、と伝承しており、いかにも真宗王国らしい由来が語られている。
「じょんから」には様々な踊りがある。ところが、五〇〇年前の蓮如上人の事跡が、ついこの間のように語られる土地柄の金沢では、どの盆踊りも、盆踊りの原点ともいうべき「歓喜歓喜談(かんぎだん)」「目蓮尊者(もくれんそんじゃ)」が中心となっている。
歓喜談」は、正式には「信後相続(しんごそうぞく)歓喜談」といい、天保二年(一八三一)に刊本が出たほど流行したものであった。この本には一〇の段物(物語)が収められており、その最初の演目が「茶飲み噺(ばな)しの意味」である。ここから、この踊りを「茶飲み咄(ばなし)」という地区もある。
「目蓮尊者」は、地獄に堕(お)ちた尊者の母を救い出すという内容の歌で、母が救い出されたとき、尊者は喜びのあまり、左回りで踊り出していることに気付かなかった。そこから、「目蓮尊者」だけは普通の踊りと反対に左回りで踊る、とされている。これは、盆の終わりにあたって、先祖を送り出す仕草を踊りで表したものである。
「目蓮尊者」の囃(はや)しが「ツイトコー」「チョイノニッカンチョ」で、「歓喜談」は「ハブライナ」である。囃しの由来が分からなくなっていることでも、これらの踊りの古さが窺える。ちなみにジョンカラの一つの由来である「自安和楽」は、仏教語には見えない。
多くの人々が集まる中で、音頭取(おんどと)りは通る声で歌わなければならなかった。そのため、ノドから血を吐く程、ノドを鍛える修行をした、ということが各地で語り草となっている。「めでた」の船頭、「謡」の棟梁も同じことであろう。
集団があり、それを統括していくには、それだけの声が必要だった。そういう意味でも歌声は、生活になくてはならないものだったのである。

※「歓喜談」は「歓喜嘆」、「目蓮尊者」は「目連尊者」でなければならないが、民謡採集史(というものがあるとすれば)における初期の筆写がそうなっており、特に「目蓮尊者」についてはいきさつがはっきりしているので、いつか触れる。

心の中にあった城下の境界

城下町金沢は、尾山御坊の寺内(じない)町から始まり、幾多の変遷を経て、寛文六年(一六六六)に城下町造りが完成した。区画された町とは別に、人々は、どのあたりまでを城下と意識していたのであろうか?
心の中の金沢を訪ねる。

天神と地蔵

加賀藩主前田家は、三代利常の頃から、天神・菅原道真の子孫であることを正式に名乗った。今、天神は学問の神さまである。だが、藩主前田家と、それを取り巻く家臣団にとっては、天神はいくさ神であり、敵を打ち破る猛々(たけだけ)しい神だった。それを証明するように、金沢に伝わっている初期の天神画像は、「怒り天神」系のものが多い。
元和元年(一六一五)から整えられていった寺町、小立野、卯辰の寺院群は、軍事的防御ラインであると共に、仏神の力によって精神的な恐れ(魔)をも防ぐ場所でもあった。むしろその方の期待が大きかったかも知れない。そのため、そこには、藩主以下を守ってきた天神も祀(まつ)られ、より強力な結界が張り巡らされていく。
天神の縁日は二十五日で、金沢には、それにちなんだ二十五天神巡礼札所がある。第一番が野町玉泉寺で、寺町、野町、片町、中央通り、三社町、長田、中橋町、広岡町、本町、此花町、瓢箪町、浅野本町、山の上町、東山、卯辰町、橋場町、桜町を巡って第二十五番天神町椿原天満宮にいたるもので、城から三㌔㍍未満の円周内に整えられた。
この巡礼札所は全国的に見ても、最も早い時期に成立したもので、宝暦二年(一七五二)には、俳人仲間によって金沢二十五天神巡りが行われている。この範囲が城下の内、と意識されていたのであろう。
この二十五天神を結ぶラインは、藩主の信仰と関わる金沢独特の境界であるが、この世とあの世の境が意識される墓地に、六地蔵が祀られているように、境界に安置されたのは地蔵が多い。もともと塞(さえ)の神・道祖神(どうそじん)などと呼ばれた結界石を、地蔵が肩代わりするケースが多く、金沢には、地蔵の縁日、二十四日に由来する二十四巡礼札所と、その倍の四十八巡礼札所が成立した。先に出来た二十四巡礼札所は寺町から犀川を越えた片町までの範囲に集中している。犀川は、本来、塞(さい)川であった可能性が強い。

倉ヶ岳・高尾・黒壁

金沢と野々市境にある倉ヶ岳(五六五㍍)は、加賀国領主の居城・高尾城の背後にあって、山頂付近に倉ヶ岳城址、大池、小池がある。近くの倉ヶ岳集落には、一〇本もの杣(そま)道が通じているといい、天文一五年(一五四六)に現在の金沢城の地に尾山御坊が築かれるまで、麓の野々市・金沢一帯からは霊山と仰がれていた。倉ヶ岳には、霊山伝説とでもいうべき特有の伝承が伝わっている。
一四八八年(長享二年)、一向一揆との闘いに敗れた加賀国領主・富樫政親(まさちか)は、居城の高尾城から倉ヶ岳に落ち延びたものの、追跡してきた一揆方の水巻新介と一騎打ちの末、馬もろとも大池に墜ち、戦死したという。政親の亡くなった旧暦六月九日には、池に朱塗りの鞍が浮かび、人びとは決して池に足を入れてはならない、とされていた。
鞍は神の象徴で、鞍が出現するのは神の示現を意味する。大池は雨乞いなどと関わる聖なる池であって、神に祀りあげられた政親の話が加わることにより、具体的な、忘れてはならない聖地として、語り継がれてきたのである 
この倉ヶ岳の艮(うしとら)・鬼門(きもん)にあたるのが伏見川の上流、三小牛町にある黒壁である。鬼門は、古代中国で生まれた概念で、冬になると北方から侵入してくる異民族に対する恐れが元になっている。
中国の都市造りを真似(まね)た日本でも、艮の方角に強力な仏神を安置した。例えば、平安京では、鞍馬山が艮に当たり、そこには毘沙門(びしゃもん)天を祀っている。畿内からは、越(こし)の国が艮にあたり、艮の延長線上に、白山、気多(けた)、須須(すず)神社の強力ないくさ神を配置した。
黒壁には、そのような地が持つ様々な要素が凝縮されている。『三州奇談』や『亀の尾の記』は、黒壁は魔魅(まみ)の住む所であり、山に慣れたキコリたちでさえ、日暮れともなると近寄らず、また異人に逢って命を失う者が多かった、と記す。また、利家が金沢城に入城した際、一向一揆の拠点・尾山御坊のあった本丸が魔所だとして、黒壁へ移し込めたとの伝承もある。境界は、修験者の格好の修行場でもあった。京都の鞍馬山と同じように、黒壁にも山伏が出入りした。現在、ここには、観音の化身とされ、天狗を祀る九万坊大権現・天台宗薬王寺があり、商売繁盛の信仰を集めている。
また、高尾では、時々、隠火(人魂)がさまよう様子が見られたといい、それは、政親の亡霊とも、前田に滅ぼされた一向一揆指導者の「坊主火」であるともいわれていた。

山人と里人のふれあい、椀(わん)貸し伝説

山と里の接点を語る伝説の代表に「椀貸し伝説」がある。里人が儀礼に必要なお椀を、境界(穴が多い)で頼んでおくと、それが用意される。ところが、約束の日にお椀を返さなかったり、数が減っていたりしたことから、椀貸しは途絶えてしまう、という話で、山人と里人の物々交換の様子を伝える話とされている。金沢近辺で「椀貸し伝説」があるのは、医王山の大池、竹又の椀貸し田、犀川上流東布瀬の椀貸し淵、梅田の膳貸し穴、脇原・北方の間の天狗カべ、才田山の御亭(おちん)山、御経塚(おきょうづか)などで、これだけ多くの「椀貸し伝説」がまとまってある所は珍しい。里人にお椀を貸しに来た使いが、才田・御経塚では狐だと伝え、才田には蓮如上人のお手植松・盤持(ばんも)ち石も伝承されている。
蓮如上人が境界に登場するあたりは、いかにも一揆国らしいが、ここに記したような、城下以前の歴史を語る話が、さりげなく顔を見せているのが金沢である。こうしてみると、加賀藩三〇〇年の歴史も、長い金沢の歴史の通過点でしかなさそうだ。金沢は奥深い。