良川・鵜家(ういえ)家を訪ねる。

12日(月)
国指定重要民俗文化財「気多の鵜祭の習俗」ー鵜様道中のお宿、鵜家家を羽咋歴史民俗資料館関係のお二人と、計3人で訪ねた。
鵜様道中の宿保存会理事長道端齊氏、同会事務局長道端弘子氏に、案内・説明をいただき、
これ以上は望めない贅沢な時を戴いた。
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能登名跡志』には、18世紀後期の鵜様宿として、観音堂山田寺)、白比古神社を挙げている。
山田寺の庚申石像
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白比古神社。
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鵜家家。
鵜籠。
奥の間の夜具は、明治時代の鵜捕部さん専用夜具。
織物の里にふさわしい、落ちつきのあるゆっくり休めそうな夜具だった。
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鵜家家墓域。
五輪、水輪。種字はバン(金剛界大日如来
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鵜埋塚(うまいづか)、鵜埋(うづめ)
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鵜休み石。
金丸。祖母の実家の真ん前だった。
子供頃、この石の横を通って金丸駅と祖母の実家を度々行き来したはずなのに、
お二方の案内があって、初めて知った。

門野實さん

鵜家家を訪ねるために、「鵜様道中」を読んでいて、門野實さんの名を見つけた。
珠洲市史に主として『能登名跡志』を頼りに能登国三十三観音札所の名を記し、実際の札所を訪ね始めた頃、門野實さんが、御詠歌について書いておられることを知り、訪ねたことがあった。
夜、門野家にたどり着き、札所を訪ねている旨を話すと、若いのに、とすごくお喜びになられ、夕食だけでなく風呂までわかして、もてなして下さった。
門野さんはお医者さんで、家で開業しておられた。
覚えているのは、ここまでである。

突然、良川の人だったのだ、本を戴いたはずだ…と古い記憶が蘇ってくる。本箱を探すが見つからない。
万葉集、緑の表紙、と思いだして行くうちに、いつも見ていた書棚に本を見つけた。
能登国三十三観音のたび』で参照にした十一種類の御詠歌本の初期に参考にした本だった。
今日、門野家前を通った。
あの時代に、どうして訪ねることが出来たのだろうか?
なかなか辿りつけなくて、夜になったのだったろうか…
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昭和41年8月発行。
発行所鳥屋町公民館。

「鵜」のつく地名ー近世の村ー

鵜飼(うかい)
鵜島(うしま)以上珠洲市
鵜川(うかわ) 能登町
鵜島(うじま)穴水町
鵜入(うにゅう) 輪島市
鵜山(うやま)旧門前町輪島市
鵜野屋(うのや) 旧富来町(志賀町
鵜浦(うのうら) 七尾市

こうしてみると「鵜様道中」の北部にしか「鵜」のつく地名がない。
加賀には鵜名の村は1ヵ所もない。
見方を変えれば、鵜捕部さんたちのの住む鹿渡島(鵜浦町)は「鵜」のつく地名の南限になる。
そこから気多への道中。
「お出で祭り(平国祭)」の時は、須須神社の神が、七尾にから気多に行って留守番をするーその時あいの風が吹くーという伝承があるが、そのことを思わせると共に、
鵜崖には、北能登一帯の「鵜」が集まる象徴の地であることも考えられる。

私のように鵜飼、鵜島、鵜川名が日常になっているものと、
普段「鵜」名を聞かない地域の人とでは、「鵜」に対する感覚的距離が違うかも知れない。