5.4運動、惲代英研究ー砂山幸雄氏、昭和54年「中国旅行記」。

→中国若者の心の師・惲代英
砂山幸雄氏は、飯田町に生まれ、飯田高校出身。
現在、愛知大学教授。
父君は、私の中学校一年の担任で、長い間、当寺の門徒役員も勤めてくださった故・砂山幸一先生。生きておられれば明日、満90歳を迎えられる。

先ほど、幸雄氏と弟さんがおいでになった。
愛知大学で教えておいでることは知っていたし、父君から国際政治を研究しておいでになることも聞いていた。
砂山先生とはお会いする機会が絶えずあったが、ご長男が東大の助手を勤めたり、大学の先生になっているようなことは話されなかった。
新聞紙上で知っていたり、愛知大学を調べて見て経歴も分かったのである。

もう少し詳しく知りたくて調べていくと、
引用した分かりやすいインタービュ記事に出会った。
取り上げられている惲代英氏は、一昨年生誕120年(1895年-1931年4月29日)を迎えられた方だそうだ。

姓の「惲」が読めない。
38年前中国へ行ったときに通訳でついてくださった北京大学大学院学生だった呉熙華さんの「キ(字は違うが)」の印象が強かったのと、
「輝」に似ているので「キ」代英と読むのかな?
と思いつつ調べると、惲(ウン)と読むことがわかった。
「運」のウンにも似ている。


初めて出会う名だったが、マルクス主義アナーキーズムなど、懐かしい言葉が並んでいる。


外浦へ行けば、海の彼方は大陸だ。
身近なところにも、至るところに人的にも世界とのつながりがある…

「中国旅行記

f:id:umiyamabusi:20170304234935j:image
飯高(飯田高校)新聞「中国旅行記]

昭和54年(1979)12月22日 飯高新聞
中国旅行記 向学心が旺盛
 西山郷史先生

 七月十六日、私達(考古美術愛好者友好訪中団。全二十一名。早稲田大学東洋美術研究室大学院生が中心)は、中国民航のボーイング727に乗りこんだ。着くまでに少しでも中国のことを知っておこうと、ガイドブックをひもとくつもりでいたのに、機内はもう中国そのものであった。夕食用焼き飯の異様(文字通り普段接していないという意味にとっておいてください)な匂いが漂い、你好(ニーハオ)と再会(チャイチェン)しか聴きとれない耳に、中国語で何か案内している放送が響く。続いて英語での放送。日本語を期待するがこれはなし。
 我々と若干の日本人を除いて中国の人ばかり。一様に白い開襟シャツを紺のズボンの上に出している。制服は見慣れているから統一された姿に対しての異和感はないものの、揃ってシャツをだしているのにはずいぶん奇異な感じを受けた。スチュワーデスも化粧気なし。日本語は片こと。飛行機というのは、何度乗っても不安が伴うものである。離陸時などは本当に一所懸命飛び上がろうとしている様子が伝わってくるものだ。ヨイショとあがってドシンと落ちるのではないか、そんな恐怖に怯えている乗客にとって、唯一の救いは、スチュワーデスがにこやかに心配ないですよ、とか何とかいってくれることである。それが期待できないところに不安があった。ともかく視・聴・臭と飛び立つのを待たずして中国文化圏に入ってしまったのである。
 飛行中印象的だったのは、時差の関係で時計を一時間遅らせたこと(すごく得をした気分になった)。夕陽がいつまでも落ちず、八時頃まで明るかったこと(蛇足ながらこれは旅行中ずっとそうであった)。着陸の際、懸命にお経をあげている学生がいたこと。
 入国手続きのため上海に着陸。手続きはパスポートをまとめて渡すだけ。ここで正式に中国の大地に一歩を踏みだしたのである。その後、北京・鄭州(ていしゅう)・巩県(きょうけん、ほとんど日本人は行っていない)・開封・洛陽・西安(旧長安)そして再び北京と、二週間にわたる遺跡・博物館を中心とした旅が続くのであるが、若干の印象を箇条書きにしておくに留める。
一、農業を例にとると、朝六時頃から働き、昼二時間の休憩。夜は七時頃まで働く。家には電灯らしきものはなく、夜十二時頃まで外(主に路上)で、雑談・散歩・サイクリング・将棋などをして過ごす。労働疎外、世代間の断絶は全くないという印象。和気あいあいと仕事に励んでいた。
一、人々の笑顔が実によく、険しい顔つきの人がほとんどいない。虫歯も少ない模様。
一、外国人には非常に関心を示し、ブラッと買い物などに出かけると黒山の人だかりになる。地方へいく程その傾向は強く、巩県では、鍬をかついだまま走って見物に集まってきた。友好のため、わざわざ外国からやってきたお客さんという教育が行き届いている。
一、挨拶は握手。力の入れ具合で親愛度がわかる。よく話しかけてき(勿論自国語で)、筆談などで片こと通じ出すと煙草を差し出す。こちらかから何かあげようとすると絶対受け取らない。ホテルの鍵は不必要。
一、物価は生活に関するものに限って、ほぼ日本の十分の一。氷菓(ビンゴー)といわれるキャンデーが三銭~五銭(四円~七円)。ビール一四五円。ハンケチ十四円。文芸新聞三円。
一、車道・歩道の区別はなく、車は中央を走る。クラクションを鳴らしっぱなし。稲穂などを道路に広げ、籾摺りの臼のような役割を車が担うこともある。夜間はスモールランプのみ。
一、向学心はすごく、一緒にずーっと旅行した北京大学日本語研究室の呉さんなどは、毎朝皆が起き出す前に散歩しながら岩波文庫を読んでいた。主に医者が多いが、日本語を独習し、飛び入りの通訳として旅行に参加しながら勉強するという人々もおり、本屋も人で一杯だった。
一、公衆トイレは大・小と仕切りがなくおおらか。
一、最大の娯楽は映画で、いつも満員、等々。
 四十度を超える日もある中、一度の昼寝もとらず、見聞くことに徹し得たのは、引きつけて離さない魅力があったせいであろう。古の文化の名残もさることながら、何かを求めようとしている人々の姿に感動を覚えていたようなものだ。情熱・前向きの姿勢というものは、言葉の壁を越えて伝わってくる。そしてそれは相手を理解したいという願いに通じる。生き続けていく上で、失ってはならぬ姿勢を垣間見たような、そんな旅であった。

※写真キャプションー西安の小雁塔にて