蓮如忌ー蓮能尼里~蓮如上人御寿像(鏡寿像)

今年の蓮如忌には、鏡御寿像とその時代を中心にお話ししようと考えた。
能登には蓮如上人の内室・蓮能尼の里がある。
当寺の御寿像は蓮如上人六十七歳。
その年、能登中島・西谷内城にあった蓮能尼は十七歳。
その前年・十六歳の時、蓮能尼は能登の六大社に法華経を奉納している(『大谷一流系図』)。
ということで、24日には蓮能尼の里を歩き、
25日を迎えた。
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25日早朝。
左奥の建物が珠洲市役所。
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背後に若山荘時代に飯田城があった城山。

元暦 元年(1184) 
「慈寂 光福庵開基 大檀那 飯田城主寺領三百石 文治二年(1186)三月五日寂」 安永八年「西勝寺系譜」


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蓮如忌の頃を彩る桜ー
明治の記録では、一枚目の道路(拡幅)のところが桜並木で、桜見物の人で賑わったとある。
しだれは過ぎ、芝桜が綺麗。
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蓮能尼の里からいただいてきた「左近の桜」
昨年は、この時期満開だったが、今年はまだツボミ。

蓮能尼の納経

須須神社法華経 三崎町寺家
妙法蓮華経 八巻 伝蓮能尼筆
巻子装、八巻、料紙楮紙、無界。紙高八㌢、全長三〇・三㌢ 紙数八枚継(但し八巻の内完完本に近い一巻) 一行十七字あて書写。
この法華経は、蓮如の内室蓮能尼が十六歳の時書写したと伝えられるもので、『大谷一流系図』の妙祐の頭註に、「蓮還能禅尼伝、文明十二年十六歳時、法華経六部奉書写能州大社六ヶ所令奉納、明応八卅五歳出家、蓮如宣化時也、永正十五戊寅九月三日寂、五十四歳」とある。
しかし、この法華経には奥書や署名など、蓮能と断定するなにものもない。筆跡からも蓮能筆とする決定的要因もないが、室町時代を降らない筆法と認め得ることから伝承の如く一応蓮能筆としてよいようであるが、確かなことは筆跡など今後の研究にまちたい。
なお、この写経は本社参道脇にあった経塚から経筒に納入されて出土したものと伝えられている。各巻の損傷状態から、経塚の出土品とみてよいと思う。桜井甚一『珠洲市史』第二巻、昭和53年(1978)3月刊

五来重先生と、須須神社奥宮(山伏山山頂)を訪ねたおり、先生は納経にふさわしい地形なので、大風が吹いたあとぐらいに木の下を注意して見ておいてください、と言われたことがある。
参道脇から出土した、というのは作られた伝承のように思える。
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蓮如上人鏡寿像略縁起」
このような縁起がありました、と初めてご披露し、内容を説明。
今まで、展示するだけで拝読しなかったのは、読めない字が2、3あるためで、読めるわけではないのだが、文明13年頃を中心に取り上げたためである。

鏡御寿像略縁起

「當檀ニ安置奉ルハ本願」寺中興開山蓮如上人六十七才之尊像ナリ抑ソノ」欄(濫)觴ヲ伺イ奉ルニ蓮如上人」吉崎御滞留ノ砌リ加賀能」登越中越后信濃出羽奥州七カ国の道俗貴賤男女」ヲ論セス日夜群詣スルコト門前」市ヲナシ御化導ヲ蒙リ□(止+矢)フモノモ□(人+口)」ヲトリ謗ルモノモ情ヲヒルカヘシモロトモニ」報土往生ノ素懐ヲトケ奉ラン□(外字)喜」日夜念佛スルハ偏ヘニ上人御化導ノ偏キカイタス処也上人ノ御勧化ノ」蒙リ念佛オコタリナカリシカ盛者必」衰會者定離ノナラヒナレハ上人御上落」之期ニ望セラレ祐信ツラ〳〵思ヨウ今生」ノ拝顔モ是レヤ限リ御上洛之后チハ何ヲ」便リニ日ヲ送ランヤト泣キ怨(カナシ)メハ上人ソノ心」ヲシロシメシテ自ラ鏡ニ向セラレソノ明鏡」ニ写リシ侭ヲ画書キ玉ヒ御形身ノ為メニ」御与ヘナサレシ尊像也ソレヨリ祐信ヲ」シ頂キシメ喜不斜日夜此ノ尊像ヲ拝シ上人ニ御対面ノ思イヲナシ念佛スルコト」ヲコタリナカリシカ故アリテ當寺第三世ノ」住職トナリ法齢六十一才ニシテ往生ノ素懐ヲ遂ゲシコトソレヨリ以来タ當寺ニ安」置シ奉リシ真影ナレハ吉崎ニ御化導ノ」上人ニ御対面ノ思ヒヲナシ称名モロ」トモ謹テ拝礼」 ※六十七才=文明十三年

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(お裏書き)

来歴

賀州小松釋良誓俗姓不詳蓮如上人吉崎ニマシマヤノシ時剃髪シテ御弟子トナレリ故ニ小松ニテ一宇ノ坊舎ヲ建立シテ上人ノ御教化ヲ演説シケルニ近郷隣村ノ道俗良誓ニ従テ念佛ヲ信スル輩甚多シ依テ上人西勝寺トイ フ寺号ヲ賜ル加之良誓望ニヨリテ鏡ニ向カセタマヒ上人ノ御姿ヲウツサセラレ自ラ図画ノ切オワリテ弘誓強縁等ノ文ヲ讃ニアソハサレ良誓ニ与ヘタマフ 御添状御裏ヲ今残矣 依之良誓ヨリ祐玄祐應円誓ト小松西勝寺ニ代々安置マシ奉リテ御一流ヲ汲ミケルニ円誓住職ノ頃門徒ト不和ノコト出来シテ裕信ト父子トモニ寺ヲ退キ傍ラニ庵室ヲムスヒ竹布ノ六字名号 良誓ヘ上人ヨリ賜ル 上人並ニ御自画鏡ノ御影ヲ安置シ奉ルニ不慮ノ災害ニ遇テ庵室忽ニ一時ノ炎トナレリ然ルニ奇哉灰燼ノ中ヨリ御名号并ニ御真影ヲ取出シ奉リケルニ恙ナク渡ラセタマフコノ時ニアタリテ見聞ノ諸人渇仰前ニ超過セリシカルニ円誓ハ吉藤専光寺ニ由縁アルニヨリテ吉藤ニ赴キ寺務ヲ補佐ス一朝病オコリテムナシクナリヌ裕信遠劫ノ宿縁ニヤ當国ヘ来リ當寺第八世ノ住持トナレリコノトキ円誓ノ預ケ置奉リシ御名号御影等ヲ専光寺ヨリ乞請来リテ光福庵ノ名ヲ改テ西勝寺ト号ス委クハ縁起ノ如シ」「西勝寺系譜」

西勝寺往昔本尊

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「文明十四年辛丑三月廿五日 方便法身尊像 専□□ 能州太田郷飯田町 願主釋尼祐□□」「御寶物目録」
「光福庵二世祐念尼 當寺傳来画像本尊願主祐念 長船定光刀壱柄祐念ヨリ傳来 賜飯田総道場号
文亀十六(永正一三年1516)乙卯正月十五日(祐念尼寂)」「西勝寺系譜」※文明14年(1842)


蓮能尼生誕~

寛正六年 一四六五 蓮如上人・ 五十一歳
           正月十日 叡山・本願寺破却
三月二十一日 再度本願寺破却
二十三日 近江金森を攻撃 二十四日赤野井攻撃
一四六五 蓮能尼 生
一四六六 冬頃 叡山衆徒、無碍光本尊を金森、堅田に返す
文明十二年 一四八〇  蓮能尼 十六歳
安城御影
     山科御影堂を建立。十一月十八日、近松坊より真影を移し、報恩講を修する。
文明十三年 一四八一  蓮如上人六十七歳 鏡の御寿像(鏡の御影)

文明十四年(1482)六月一五日 山科本願寺御本尊遷座

文明十五年(1483) 蓮如上人七十賀御短冊 右ハ越前浅水称名寺宝物なり 安永七(1777)戊戌年九月御巡回之節存如上人大幅六字名号ト替申□也」「御寶物目録」

長享 二年(1488) 「光福庵主西勝寺祖入覚 改宗為念佛道場 長享二戊申年十一月十八日」「西勝寺系譜」

延徳 二年(1490) 能登で、本願寺門徒、守護攻略を計る 『真宗聖典』年表 

延徳 三年(1491) 蓮如上人鏡の御寿像 蓮如上人七七歳 →縁起、来歴

明応 三年(1494) 我なしときかハやかてもみな人ハ南無阿弥陀仏とたれもたのめよ
   命なからう
       八十まてみてる命の老らくの月の長夜をまつや彼岸 蓮如上人八〇才
   「蓮如上人御真筆 一 御詠歌二首 一軸 右三品ハ天明甲辰のとし(天明四年1784)泉州より請し来る」「御寶物目録」
 『蓮如上人遺文』「○明応元年満八十歳法印号の前記に(満八十は明応三年也あそばしちがへらる歟)八十地まで命ながらふ     老いの身の月の船路をまつや彼岸 我なしときかばやがてもみな人は南無阿弥陀仏とたれもたのめよ」稲葉昌丸

明応 八年(1499)三月二五日 蓮如上人示寂 八五才