『旅する民間宗教者』(西海賢二著)が教えるもの

西海さんのこの本から、多く学ぶべきことがある。
特に、加賀・能登では、この分野は、徳本・義賢についての報告がある程度で、手つかずといってもいい程で、研究の最先端を知ることは、重要だろう。
ー『歴史の道調査報告書 第五集 信仰の道』芝田悟執筆 石川県教育委員会 平成10年3月刊。第四章 特論 第四節 加賀能登における念仏行者の足跡ー近世後期の徳本・義賢行者名号塔からー津幡を含めば十二例、津幡を除くと六例。二人は、弾誓-澄禅 系(ではないかとしている。ー

この本が教えてくれていること、真宗と関わることなど、私の関心事について整理する。

ゴシックの項目、
○が『旅する民間宗教者』本文引用部、
※は私の感想など、である

木食観海-勧進と聖のはざまで-

○民衆側から一線をおかれた場合は、木食弾誓(たんせい) 澄禅(ちょうぜん) 木食行道(ぎょうどう) 木食観正(かんしょう)がそうであったように、ある面で幕府権力などと癒着した宗教活動を展開した時で、その場合は、彼らは民衆から離れて雲上の人と化し、規制教団の末端に位置づけられてしまうのである。(P17)
○近世の六十六部研究は、小嶋博巳をはじめとする民俗学的研究(※研究書四点略)があるが、六十六部の組織や、宿の分布、供養塔の分布に至っては研究が進展していない状況で、とくに六十六部から木食僧に変化する過程や地域的展開などは、ほとんど解明されていない。(P37)

※六部→木食
→六部を訪ねて、金沢六十六部塔は1719年、豊田日吉神社は1705年、木食良雄の没年が1705年。
寺檀制度が徹底される時期、すなわち諸宗が信仰運動を展開して行く時期と重なっている。
f:id:umiyamabusi:20170418063047j:image
→PDF
豊田日吉神社
タイトルが「寄進札」となっているが奉納札である。奉納には廻国者にとっての法華経滅罪が意識されているのに対し、寄進は旦那の作善行が前面にでる。
タイトルは「奉納大乗妙典日本六十餘州廻国」札と、そのものを名にすべきだろう。または「大乗妙典奉納札」であってもいいかもしれない。
また、梵字・キリークは阿弥陀如来あるいは千手観音で、虚空蔵はタラークである。
両字は似ているが、この種字はキリークで、蓮華座の阿弥陀如来と見るべきである。

木食行道-微笑仏の聖-

○木食戒というのは、五穀以外の果実を常食とする厳しい戒律である。(行道は木食観海から木食戒を授けられ、終生この戒を守ったと言われている)。(P41)
○宗派にこだわることなく(観海も造寺・造塔の勧進活動を常陸国下野国を中心に展開したが、下野においては天台・真言をはじめ浄土真宗をもまきこみ、かつ本山系・当山系の修験者も取り込んでいる)日本廻国を専らとして、日本全国の霊地を巡り(木食行道『南無阿弥陀仏国々御宿帳』) 、千体仏を造像していたことがわかる。(P43)

※千体仏→木食良雄の寺院・木郎弥勒院・河下大明神略縁起(弘法大師延命地蔵一千体の一つ)

木食観正-逃亡者としての旅-

○観正は天明年間(一七八一~八九)に淡路縄騒動といわれる百姓一揆に深く関わり、殺人を犯すところとなり、その後逃亡しながら六十六部としての廻国修行をすることによって、民間宗教者となっていった。(P50)

f:id:umiyamabusi:20170417114056j:image

※行者喜作(木食観正)日本廻国略図(寛政9年より文政12年まで)P56~57
文化三年六月には佐渡に足跡を残している。のち、北陸・信濃・甲斐・武蔵・信濃・越後・飛騨・越中能登・加賀・越前若狭を経由して、文化五年には丹後にいたっている。(P59)

木食仏海ー渚の聖ー

○「越後佐渡信州善光寺越中立山能登石[ヘン山+同](動)山、加賀ノ白山、越前、近江、自其渡四国八十八箇所霊窟ハイシ、又趣西国順礼、至志摩国阿乗村長寿寺、施仏既満一千供養成就」(略)三十一歳の時、志摩国の安乗(あのり)村で施仏一千体を成就している。(P67)

石動山は『塩尻』の六十六部巡拝路に載る。加賀白山→能登石動山越中立山

菅江真澄と木食

○諸史料から確実に把握することが可能な近世の「木食上人」は少なくとも四〇名ほどを数えるが、全国各地の自治体史などその多くが、木食上人を固有名詞として紹介している。(P72)

弥勒院 第五世住職良雄は木食上人と称し、その出生は今の宮犬なる作原家なりといひ、また川尻なりといへども明ならず、良雄弱冠にして放逸無頼の人なりしに、後ち発心して出家し、木実をのみ食し、正徳二年に寂す、墓は当寺境内にあり、木像もまた保存せらる、(『石川県珠洲郡誌』P399)

※木実だけ食す木食行者であったことを記している。正徳二年は1712年。徳本、義賢の没年は徳本が文政元年(1818)、義賢が天保11年(1840)であるから、良雄の木食行は100年以上も前のことになる。馬場宏、坂下喜久次さんの生前中に、「木食」の流れにもう少し関心が向けられるべきだった。

霊域を求めた民間宗教者たち

江戸幕府により慶長十八年(一六一三)修験道法度。
修験道法度と並んで、近世における修験道界の大きな展開は、戦後時代から順次始まった山伏の里(村)への定着化が、決定付けされたことである。いわば里修験(宮本袈裟雄『里修験の研究』)が、村方の宗教者として活躍の場を求めていったことである。(P78)

※七尾青柏祭のいわれである猿神退治の話しに登場する修験と天狗の関係について、宮本さんの『天狗と修験者』を読むことがあるかも知れないとコタツ周りにおいておいた。そして、彼と親しくしていた高桑守史さんが、宮本さんが亡くなったとき、本当に悲しみ落ち込んでいた、と耳にしたことなどを思いだしていた。
昨晩、高桑さんと電話でしばらく話したのである。高桑-宮本-西海ラインの話を書くことになるとは思ってもいなかった。『里修験の研究』名を見て、深い「縁」を味わっている。

f:id:umiyamabusi:20170417134936j:image

アンヌ・マリ・ブッシィ氏

○三十年ほど前にフランス人のアンヌ・マリ・ブッシィ氏がまとめられた『捨身行者実利の修験道』(角川書店・一九七七年)に取り上げられた林実利(じっかが)(1843~1884)は、明治十七年(1884)に和歌山県那智の大滝に捨身した大峰の行者(P82)

※ブッシイ氏は、女性である。フランス、パリ大学を卒業。いきさつは省くが、わが家に泊まられたことがある。
私と同学年で、パリ大となれば、何よりもフランシーヌ(新谷のり子「フランシーヌの場合」)のことを聞かなくては、と、
三月三十日、パリ、カルチェ・ラタンなどの語を用いて聞いた。
彼女はそのような出来事はあったが、フランシーヌという名ではなかったのでないか、と話した。今から32年前、38歳頃の話である。
f:id:umiyamabusi:20170417134937j:image

羽黒修験道飯豊山信仰ー道中日記が活写するみちのくの山岳信仰

飯豊山神社は五社権現(P140)、男鹿本山にも五社堂(P141)

※石動五社権現、宝立山神明五社など、五社の展開

善光寺道中日記を読む

○『平家物語』の千手の前、『とはずがたり』の二条、『曽我物語』の虎御前など、多数の女性参詣者(P142)。
○死者の骨を持って参詣することも行われ、善光寺裏山一帯には現在も夥しい数の五輪塔が散在している。(P143)
○おもいがけず物事が進むという「牛に引かれて善光寺参り」(P143)

御師に引かれて

善光寺本堂で戒壇巡りをした時に用いた草履を持ち帰り、死後棺桶に入れる葬送儀礼(P144)

※生前善光寺詣でをしなかった人が亡くなったとき、善光寺にお参りに行っているのだからと、御詠歌をゆっくりあげる風習など。能登でも善光寺との関わりを聞いた。→町史

武蔵野の戸隠講ー江戸期農民の雨乞い信仰ー

○各村々から代参者を選出して、二・三人の組をいくつか作り、信州戸隠山の九頭龍池からもらった御神水、駅伝方式で村々まで運ぶ。地につけたり、後ろをふりむいたりしてはいけない。雨乞いだけでなく日乞い。(P158、9)

現在でも戸隠に代参を送っている。(P161)
能登は一組。男前が選ばれる。ふりむくなは聞かなかった。戸隠・宝光社を調査したとき、宝光社に、加賀藩侍たちの霞組織を書いた帳冊があると聞いている。

旧跡巡拝

○笠には「迷故三界城 悟故十方空 何某」とか「二十四輩 豊後国 何某」などと墨書されている。(P167)

真宗門徒の笠

奥州からの霊地参詣

○近世中後期以降、西国地方からの六部(六十六部)らの下級宗教者が、民間薬の伝播や、農具の普及、稲の品種伝播などに果たした役割も見のがせない。(P175)