国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。-浄土真宗的国家論ー

「場所的論理と宗教的世界観」西田幾多郞

タイトルの文は、西田幾多郞最晩年の論、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」の最後の一文である。
今現在説法、寝ても覚めても声明念仏すべきものなり、大悲無倦常照我の具現が
花鳥風月や花鳥諷詠であり、
幾多郞の言葉ではこうなると感じている。

今、5時15分、花鳥風月ー今朝の鳥の一声はカラスだった。

昭和21年2月に刊行された『哲学論文集第七』に載るというから、幾多郞没後8ヶ月経って世に出た論ということになる。

この文を確かめるため、県立図書館で「場所的論理と宗教的世界観」で見、コピーをとったはずだが、見当たらない。

古本で2冊、論が載っている書物を購入した。
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そして、この結論を導き出すために幾多郞が引用しているのが、次の文である。

君主的神のキリスト教と国家との結合は容易に考えられるが、仏教は、従来非国家的とも考えられていた。しかし、鈴木大拙は大無量寿経四一の此会四衆、一時悉見、彼見此土、亦復如是[この会の四衆は、一時に(この仏を)ことごとく見立てまつる。かの(浄土の聖衆・しょうじゅ)も、この土の(会座)を見ること、またかくの如し]という語を引いて、此土(しど)に釈尊を中心とした会衆(えしゅ)が浄土を見るが如く、彼土の会衆によって此土が見られる。
娑婆(しゃば)が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆との聯貫(れんかん)性あるいは一如性を示唆するものであるといっている(鈴木大拙著『浄土系思想論』)。
私は此(ここ)から浄土真宗的に国家というものを考え得るかと思う。
国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない。

※「此会四衆…」は、『真宗聖典』P80

『浄土系思想論』鈴木大拙

この『浄土系思想論』は『鈴木大拙全集第六巻』に載っているので、ざーっと目を通した。
「娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す」の文を探したのだが、ざー-では見つからない。
幾多郞は、原文を引用したのか、それとも『浄土系思想論』虫の「極楽と娑婆」あたりを幾多郞なりにまとめた表現なのか…?
じっくり岩波『西田幾多郞全集』本を読めばいいのに、
幾多郞は古い『浄土系思想論』をみたはずだ、ということで、つい昭和17年初版の法藏館版『浄土系思想論』を古本で購入してしまった。
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父の27回忌(4月1日)、叔母の一周忌・その他33など4ことのお年忌も昨日(2日)終え、

今日からは、余裕。
昼は散策、
夜は懸案を確かめる日々にしたいものだ。
まず、

娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す

の一文の有無から…。