大谷国史学会講演と『中等教育資料』



 資料館館長時に「大谷大学博物館学課程年報」に書いたのとは直接関係ないが、
大谷大学国史学の学生さんを相手に講演したことがある。
その時も、豊島さんからの話しだったような気がするのだが、
地方で頑張っている国史卒業生の話しを聞く、という触れ込みだったような気がする。
書いたものがないと、曖昧な記憶になる。

この時は、大谷で話して、すぐ新幹線に乗り、鬼怒川温泉に向かった。
鬼怒川では東日本各県高校の指導主事・各県教科代表者が集まり、教育研究会が行われた。
大谷の発表があったので、遅刻する形で参加したが、中教審改変ー総合化ーの時にあたっており、そのメンバーの一橋大教授の話を聞いているので、遅刻といっても、県から一緒に行けなかった程度だったのかも知れない。
その時の国語指導主事は後に七尾高校長になられた高沢幹夫先生で、それまで奥能登から国語代表が参加したことがないので行かないかと誘われたのだった。ということは高沢先生とどこかで出会っているはずで、記憶を辿っていくと、初任の羽咋工業の頃、高沢先生は羽咋で教えておられたので、そこで何らかの接点があったのかも知れない。
ともあれ、ものすごく広い宴会場だったこと、翌日の研究発表会場だけを覚えている。
 翌日全体発表の2、3の先生方に続き、各県代表が自分の席で研究というか、国語教育の展望のようなものを発表した。
 私は、地域教材を活かした古典授業、および、現代文教材に用いられている差別語の2点に触れた。

 その後、日常の教員生活を送っているとき、体育館へ(卒業式か入学式の準備でもしていたか)校長が呼びに来て、文部省の北川調査官から電話が入っている、という。
 まず校長室に入ることもなく、まして文部省から?
電話に出ると、先の発表のうち、古典教材分に限って文章化できないか、との話しだった。
ここまで書いてきたら、いつのことかはっきりする。
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 昭和63年(1988)に「国語科の授業改善と教材の開発」(『中等教育資料』文部省)を書いている。
 博物館に書いたときの、およそ10年前のことだったのか…。

 転載しようと中等教育資料を見ると、目次に「石川県立飯田高等学校」とあるだけで、54ページには校長の名での発表になっている。
すなわち、学校ぐるみの研究を私がまとめた形での文なのだ。私は最後に(文責 教諭 西山郷史)と乗っている。
そういう流れなら、校長が責任を持って進めなければならないのに、
最も若い国語教師である私がいろいろの思いを持つ国語教師方をまとめて、全国語教師の取り組みということにしてまとめた。

 そのまま教員を続けていれば、漢文世界・中国へも行ってきているし、国語教育に一家言を持つことになったのかも知れないが、
それから3年後、44歳で退職した。

 その後は、まわりが社会の教員というので、大学院で国史を専攻しておりながら社会科の免許を取らなかった理由を説明するのも面倒なので、社会科の教員で通している。が、このところ研究者仲間がいなくなり、教え子と出会うほうが多くなってきた。

 こんなことを思い出すのもいいのかも知れない。
 
この地域教材論は、もう一度展開された。
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『月刊国語教育』1990(平成2年)10月号、東京法令出版株式会社

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実践特集 アッと驚く、古典指導にこんな手が……3
 地域教材から古典世界へ 西山郷史 石川県立飯田高校


あとの論をパラパラと見ると、ワー先生方だ、熱血教師だ、と思った。
もうこの時、中高一貫教育の試みなども載っている。

そして、私の決定的な教師としての欠点にまたもや気づかされた。
字が下手。板書はガタガタ。

ただ文を読むと、こんなことを考えていたのか、と、感動する。
中等教育資料』北川調査官は、「石川県立飯田高等学校の実践研究について」と題して、
「石川県能登地方は郷土にかかる文学教材が豊かである。これは、実践研究者の努力があって幅広く発掘されているからであることは言うまでもない。
 古典も現代文も研究調査が行き届いていることが、この実践研究からうかがうことができよう。このような教材開発と緻密な教材研究によって初めて総合国語の名にふさわしい有機的な教材の組み合わせが可能となるのである。 
 古文導入教材として現代文が効果的に組み合わせられ、文学における風土性が作品世界のリアリティを感じさせ、古典への親しみや学習意欲を喚起するものとなっている。
 地域の独自性を深くとらえればとらえるほど、それが一層深まるのである。
                              (教科調査官 北川茂治)」
ということで、このあと、二つの論を転載する。

そして、その頃、問題集が文学史古事記から、文法・作品は徒然の時代からというテキスト配列に対し、
文学史をやれば自然と文法その他も力のつく問題集を作ろうと考えていたのである。
加能民俗の会会長の小倉学さんが、桜ヶ丘で国語の教師をしていて、戦後間もなくのことでもあり、手頃な古語辞典がないからと、午後の放課時間(研究をするという理由で、当時の石川の高校は午後の時間を自由に使えたらしい)や休み時間を利用して古語辞典を一冊作り上げた、ことをご本人から聞いた。

 実際、問題集というか総合教科書を作ることが出来たであろうか…?
 ただ。徒然あたりから時代がくだったり、遡ったりして古典を扱う-鎌倉期に古典完成期があるような発想は、問い直さなければと、その頃から思っていた。
 末法到来を自覚していた頃の作品の本質は、の問い直しの必要性である。

実践研究 国語科の授業改善と教材の開発ー郷土資料の導入ー

1 はじめに一実践研究に至る経過一

 現代国語・古典が国語1・2として総合的に取り扱われるようになり,このことの個別論や総括がなされるのに充分な時が経過した。
 社会が多様化し,専門の細分化が進む中で,後期中等教育が細分化の道を歩むべきなのか,むしろ総合化なのかの論議が交わされてきたが,豊かな情操をもった国際人を育てる観点から言えば,文化そのものである言語活動を教える方向性が,文化の継承者たる生徒に対して総合化で定着したのは時宜にかなったものであったと言えよう。
 そして,この方向に沿った教科書を選ぶことになるのだが,生徒がどの程度の言語能力を有しているかを知っておくことが教科書選択の一つの目安となる。また,このことは生徒が今後出会う教材に対してどの程度違和感を抱くかを知る尺度ともなる。
 結論を述べれば,あえて語彙の説明をしなくても当然知っているはずだと思われる基本語について,生徒(若者の一部として)の認識は曖昧である。
 話題となった例を紹介したい。蛙が一斉に鳴いている夕暮れ時,何の声かと聞いた都会育ちの学生がいた。また,蛍は光を放ち続けて飛ぶものと思っていた人にも出会った。これはテレビの残像を実態とみなしていた例であり,前者も効果音を,現実風景そのものの音と信じていた例である。これらの話は都会に育つとこういうこともあるのかといった感慨ですませることも出来るが,金沢の小学生が,県立歴史博物館の体験コーナーの唐箕から出てくる米を見て,これは米ではないと言い張ったという話を聞くに及んで,これは大変なことになっていると思った。彼らは郊外で稲穂を見ており,そこには食卓に供せられる真っ白な米が入っていると考えているのである。その一方で,子供らは動植物の珍種に対しては驚くほど該博な知識を有している。
 すなわち,現生徒たちは主としてマスコミの影響によって生じた知識のドーナツ化現象ともいうべき状況の中で育ったため,生活からかけ離れた知識をあるべき知識と思っているところがある。
 このような実状の中で,現実から離れた古典を含む総合国語を,実のあるものとして生徒に位置づけていくにはどうしたらよいか。生活と風土をも視野に入れた血肉となる言語能力を育てていくにはどのような教材を与えればよいか。この問が研究を始めるに至った動機である。

2,教科書の教材配列について

 総合的な力をつけるために,各教科書とも苦労して編集している様子がうかがえる。具体的には融合単元の設定であり,古文導入部の工夫である。工夫の跡は見られるといっても,それは旧来の現代国語・古典の分け方に比較してといった程度であって,交互に配列された作品をまとめれば,やはり現代文・古文・漢文になってしまい,旧枠をほとんど出ていない。
 言うまでもなく,区分けの基準は近代国家の出発点である明治期におかれ,ここに画然とした時代区分を設ける以上,現代文とその他はそれぞれのグループを主張してしまう。そして一年生なら一年生の理解力に見合うようにこれらが交互に配列され,各分野の知識量が増えることはあっても,それぞれがつながりを持って育っていくというところにまではなかなかなっていかない。
 自分の営んでいる生活を通して容易に入っていくことの出来る作品群を現代文と見なすなら,1に記したことからも推測出来るように,現生徒にとっての現代文は高度成長期以降のものである。
 教科書の多くを占めている戦前育ちの作家による作品は,既に別の意味での擬古文になっている。というのは,一つは既に述べた基本語彙にかかわる点,もう一つは封建的身分制の残存による影が,作品の背後に見え隠れしているという点による。換言すれば,言葉遣いこそ現代とほとんど変わらないが,作品を産み出す背景である生産基盤・社会生活を含む風土が,生徒たちには遠い古文世界のそれであるということである。
 こうしてみると,明治で二極に分ける在り方は,そろそろ問い直されなければならない時期に来ているのではないだろうか。より緻密な時代区分を行い,それぞれを有機的につないでいく作業がなされた時,総合はより内実を伴うものになると思われる。
 そのためには教科書の再構築から始めなければならず,4の古文導入実践方法などとも絡めて検討しなければならない。

3 古典(古文)導入について1

 韻文などの古文的なものを含んでいるにもかかわらず,現代文に対しては無自覚であり,一方古文に対しては必要以上に身構えてしまう生徒が多い。
 古文導入では何よりも抵抗感を取り除いてやることが大切である。その意味では,導入部にユーモラスな「ちごのそら寝」や近代作家によって新たな生命を吹き込まれた「絵仏師良秀」などのなじみ易い説話を採用している教科書が多く,配慮がなされている。
 多く扱われている「ちごのそら寝」では,古文には簡潔に状況と心理を描いたものがあることを教え,子供らしい素直な気持ちが活写されていることが理解出来れば充分であろう。さらに生徒がいにしえのちごを友とし,慌ただしい日々にあって忘れかけている心を思い起こすことが出来ればそれに越したことはない。またそれだけの強さを持っている作品である。
 ただ生徒が「家が貧しくてちごに出され,かいもちぐらいのものでもあせって食べたがっている」などと,感動を持たないままに得心してしまわないように注意する必要がある。これは比較的知識を有する生徒の陥り易いとらえ方で,教える側としては,当時のちごは名門の出であること,宵のつれづれとあっても八講会などの行事の続く折の宵であって,稲穂の実りを意味するかいもちは予祝行事か何かでないと口に出来ない珍しい食べ物であることぐらいは心に留めておかなけれぱならない。それを踏まえないとちごの切実さがぼやけてしまう。
 その点,本校生徒の一部の家では,アエノコト(田の神さま)や彼岸などでかいもちを特別に作る風が見られ,指導し易い。だが,比叡の厳しい風土を実感として味わえないために,その人々の暖かい交流はぼやけてしまう。
 作品の背景を充分に知り尽くすことは重要であろうが,導入部で古文を知識の彼方に追いやらないためには,この作品を扱う前の現代文に少年期にかかわるエッセーなどを採り上げ,生徒に時代を越えた共感まで味わわせたいものである。
 総合国語の重要性と生徒の言語能力の隔たり一それを埋めるより効果的な方法として,地域に根ざした教材を開発し新たな編成を試みた。

4 古文導入における自主教材

 古文であっても,そこに描かれている舞台が生活の場であるなら,見知らぬ土地の現代文以上に身近な作品に感じられる。
 本校生徒の通学区域が登場する古文には,出雲風土記万葉集梁塵秘抄今昔物語集・撰集抄・平家物語源平盛衰記・説話「をぐり」・芭蕉の句(句碑が所々に存在する)・数種類の近世紀行文・近世歌謡(祭礼時に歌われている)などがある。これらの中には伝説として語り継がれているものも多く,原文は知らなくとも生徒には日常的な親しみがある。 また方言の中には長い生命を持つ語があり,特に音便を教える例に取り挙げるなら,古語の世界に抵抗なしに入っていけるものと思われる。
 一方,近代以降では山口誓子水原秋桜子村上元三半村良森崎和江高浜虚子宮本常一といった作家による作品が挙げられる。
 以上の作品からは,様々な組み合わせが考えられるが,ーつの流れに沿って次のような導入教材を作り指導してみた。簡単な解説,指導上の留意点を記しておく。配当時聞は6時間である。

A山口誓子能登」(天狼」のち「山口誓子全集」第5巻所収)2時問

(解説)誓子の曽祖父は本校のある珠洲市の若山町出身。誓子は祖父に育てられ,祖父の思い出を多く文章にしている。それらの中でもこの作品は,祖父が長年の念願が叶い,能登を訪れることが出来た喜びを滋味溢れる文章で綴ったものである。曽祖父の家は能登に流された平大納言時忠筋にあたるといわれている旧家で,誓子自身もこのことを誇りとした文を表わしている、
(留意点〉祖父の話を通して,まだ見ぬ能登への憧れ,祖父に対する愛情が抑えた筆の中にも滲み出ているのを味わう。後年,筆者が当地へ訪れた折の句「その墓に(時忠の墓…筆者注)手触れてかなし星月夜」「ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまり」や,秋桜子の「章魚さげし人夕暮れの岩づたふ」・角川源義・地元作家の佳句を参考に挙げる。俳句については親しみ易い表現形式であることを触れる程度に留めておく。

B 「能登名跡志」(太田頼資著,18世紀後半成立)1時間30分

(解説)近世の紀行文。天下の書府といわれた加賀藩からは多くの文入が輩出した。著者もその一人。Aの舞台,若山から外浦にかけての紀行を読む。
(留意点)簡潔な文の中に記すべきことは記している点を味わい,現代文との違いを考える。これはさほど大きなものでなく,歴史的仮名遣い,用言の活用,助詞・助動詞に違いがあることを理解させる。文法については今後様々な作品を通して学んでいくとの指摘に留め,歴史的仮名遣いをやや詳しく扱う。

平家物語」「源平盛衰記」の時忠配流の部分1時問30分・感想1時間

(解説)平家ではさりげなく触れられていることが,盛衰記では詳しく述べられており・哀調を帯びた名文となっている。伝時忠の墓付近に誓子の記した「白波の打ち驚ろかす岩の上に寝らえで松の幾夜経ぬらん」の碑が建つが,出典が盛衰記にあり,こう歌わざるを得なかった時忠の気持に触れることが出来るであろう。いうまでもなくA・Bにかかわる部分である。
(留意点)読み味わうだけで充分である。参考として,千載集・山家集に載る時忠の和歌を挙げ,当時の教養人には作歌が必須の条件であったことぐらいは触れておいてもよいかも知れない。
 ここまで扱ったあとで,Aの秋桜子の句における文語的なところを取り上げ,現代にもこういう形で文語が息づいていることにも留意させ,全体の感想を書く。
 以上が,導入教材の一試みである。本校生徒の平均学力は県下高校の中程よりやや上で,学力幅は広い。この導入はやや高度かと危惧されたが,親しみ易いこともあって関心を示した。親しみは持っていても現地を知らない生徒も多く,スライドを使うなりの工夫はまだまだ残されている。
 ただ,長い冬をくぐり抜け,陽光のさわやかな時期に扱う教材としては,寂しいのではないかといった思いは残る。しかし,青い海と緑に囲まれた季節と風士を知っているものにとって,能登の紹介のされ方が,いつもサイハテであることの違和感を生徒自身が体で感じていることもあり,文化風土が実は古くから文人たちによって作られてきた面もあるのだということに,それとなく気づいてくれればという期待もある。
 地域からの教材活用を導入部で行ってみた。さらに三年のまとめの段階で,それまで学んだ知識を総合化する営みも問うていかなければならないのではないか,とも考えている。                       (文責 教諭 西山郷史)

石川県立飯田高等学校の実践研究について

 石川県能登地方は郷土にかかる文学教材が豊かである。これは,実践研究者の努力があって幅広く発掘されているからであることは言うまでもない。古典も現代文も研究調査が行き届いていることが,この実践研究からうかがうことができよう、このような教材開発と緻密な教材研究によって初めて総合国語の名にふさわしい有機的な教材の組み合わせが可能となるのである。古文導入教材として現代文が効果的に組み合わせられ,文学における風土性が作品世界のリアリティを感じさせ,古典への親しみや学習意欲を喚起するものとなっている。地域の独自性を深くとらえれぱとらえるほど,それが一層深まるのである。
                      (教科調査官 北川茂治)