「学芸員の窓」半島からー友へー(大谷大学博物館学課程年報、第8号、1996年度)

f:id:umiyamabusi:20170306123632j:image

学芸員の窓」半島からー友へー 西山郷史

  昨年10月、「文化往来」(北國新聞)に載った私へのインタビュー記事を紹介する。
 「珠洲市珠洲焼資料館に就任して半年が過ぎた。珠洲焼を核にした能登半島文化の発信に意欲を新たにする。『見学に来る子供たちが目を輝かせている。軽薄短小の時代と言われるがやはり歴史の重さは感動を呼ぶようだ』
 平安時代末期に登場した珠洲焼は、須恵器の流れをくむ中世古窯。地味な色合いと素朴で個性的な造形によって古美術界での評価が高まっているが、西山館長の視野はもっと広い。
珠洲焼は能登から国内全土の四分の一の地域に広まった。この時期は、民衆がダイナミックに動き出す中世という時代に重なっている』
製塩業や説話文学、山岳宗教といった中世能登の文化全般の中での珠洲焼の位置付けを考えていきたいという。『他県の半島地域と連携した研究や町おこしにも取り組んでみたい』。珠洲焼を中心に夢が広がる。」(以上)

当資料館には、有学芸員資格者が4人いて、1人は大谷大学卒業後に資格を得ている。彼らの日常を見ていると、発掘・報告書作成に追われ、各地からの報告書に目を通す暇もないのでは……と思える程なので、今は、彼らがリラックスして仕事ができる環境を作り、資料をすぐ引き出せるデーター作成をし、館関係では、子供たち向けの概説書を作ろうと考えている。
19年問勤務した県立高校で国語を教え、退職後の住職生活では「心を一つにして念仏申す」ことを夢見、専攻は「宗教民俗」といっていた者が、考古(美術)分野の資料館に関わることになろうとは思ってもいなかった。
 話があった時、「心を一つ」どころじゃなくなるなア、の思いに、それを覆うように「親鸞聖人から蓮如上人の時代にかけて焼かれた焼物世界ならば……」の気持ちが湧いてきて、お引受けすることにした。

 一度も研究職に就く機会がなかったにもかかわらず、今日まで市町史に携わったり、報告文を表すことが出来たのは、能登を文化面で復権できればとの夢と、谷大院生時代に学んだ方法とがかみ合ったためであるが、それ以上に、当時助手であった故佐々木孝正さんが、「行きませんか」と下宿に電話をくれ、各地へ連れていって下さった思い出に負うところが大きい。遠く石川にいても調べていますよ、と報告し続けたい、それが調査の原動力になっていた。
 学芸員関係のカリキュラムを見ると、羨ましい程の充実ぶりである。資格を生かした職業に就く人、別の生き方を選ぶ人がいるのであろうが、どこに生きても、学ぶ機会を持てなかった人々に還元していって欲しいと思う。
 多くの人が深い文化に出会いたいと願っているのに、それに触れさせてくれる人との出会いが、なかなか見つからないのである。私にとっての佐々木さんのような、そんな人に、一人ひとりがなって下さることを念願する。
物・文化を愛することは、人を愛すること、なのだから。
                       (珠洲市珠洲焼資料館館長)

珠洲焼資料館館長職には、1996年(平成8年)から2004年(平成16年)の4期8年間就いていた。
この文は、ほぼ一年後の1997年3月18日に発行された年報に載ったものだ。
確か豊島修氏からの依頼で書いたと記憶している。

年報をあらためて見てみると、「学芸員の窓」には高野弥和子、福江充氏が書いておられる。
大学関係者では藤島建樹研究科長、豊島修教授、木場明志・草野顕之助教授が執筆なさっている。
その他、森容子(湖東市歴史民俗資料館学芸員)、学生は、梶井恵子、明石純江、[レポート]植田智行、相宗大督、今橋祐子、加藤幸子、高井里美、竹下悦子、前地里香、村岡幸、角田利恵子、加藤晶子、清水強史、瀬戸里子、濱井千佳世、大田陽子、川嶋志保、上西淑子、小野綾子、明石純江、赤堀晴美、大橋由美子、奥野信子、小澤愛、米川記世、青木紀子の諸氏、
宮崎健司助教授は博物館学課程開設10周年記念行事についての報告。

私の本文中の「羨ましいほどの充実」は、上記の内容である。