板谷みどりさんの「おもいで」

現今は、高校卒業式は3日前後が多いようだ。
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私が高校教員だった頃は8日が多く、教員生活19年間中に、
卒業式を迎えることなく先だった生徒が2人いる。
2人とも担任でなく、授業を持たなかった学年の子だったので、卒業アルバムは持っていない。
在校生だったことが分かるように、卒業アルバムには何らかの形で、載っているのだろうか…。

そのうちの1人、板谷みどりさんに対しては、追悼文集「おもいで」に一文を書いた。


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1988(昭和63)年3月8日-29年前
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思いきりはずしたボール拾う君
 「ありがとう」の一言 照れた
は、文集中の「心にいつも君の思い出」と題するサッカー部員・鷺浩志君の短歌
他にも、
・「さいなら」とその一言がいいたくて
   彼女を待った十七の春
・放課後に君を見かけた洗濯場
   洗い流して 汗 泥 涙
・仕事終え ネクタイほどき思い出す
   今日は彼女の一周忌

右ページは、彼女たちマネージャーが、練習中にいつも立っていた場所。
サッカーゴールは一つだった。
グランドがあり、後景は飯田湾。右手に見附島、立山連峰が望める日もあった。
ボールには「HANKO S.C.C」と書いてある。
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想い出  サッカー部顧問 西山郷史先生

 板谷さんに関わる想い出を書こうと頭を巡らしてみた。
時は一月十日、夜十時。二年続きの穏やかな冬といわれた穏やかさも昨日まで。今、激しい風が窓を震わせ、雪が窓を叩く。合間を縫うように飲み屋からかすかにカラオケの音が聞こえてくる。真冬に向かう中で、部屋の雰囲気もスサマジイ。
 筆を進めようとすると彼女の様々な姿が目交(まなかい)にちらつく。
いくつかの印象をまとめて、三つにするところまでは何とか辿り着いた。
一つはサッカー部のマネージャーをしていてグラウンドに向かって立っている姿。
もう一つは一度復学したそのあとだと思うのだが、偶然汽車で一緒になり、小木駅で降りた彼女が駅舎のところで見送ってくれた姿。
そして、一昨年(昭和六一年)の一二月九日、通夜に訪れた折、まだ納棺前で布団に横たわっていた彼女の姿である。

 前の二つは、内浦の海を見下すグラウンドや、哀愁を誘う駅の後景の中で、あのちょっとはにかんだような清しい彼女の笑顔がついてまわり、さわやかすぎて切なくなる。
 書くために印象を鮮明にしようとする度、笑顔が浮かんできてどうしようもない。
 たとえてみれば、初恋の頃によくあるように、憧れてもどうにもならない人を、忘れようとすると最も素敵な姿が浮かんできてしまうという状況に似ている。この場合はひたすら読書にでも専念するか、ギターをかきならすか、面影を追いやることにこれ努めることになるのだが、今は逆のケースである。
 ともあれ一シーンに留まっていると、周りの風景やらちょっとした彼女のシグサか次々に浮かんできて、つい涙しがちになるので、そろそろまずいと思う頃に三つのシーンを回転させることになる。一しきりそうこうしているうちに、今日は書けそうにないとの思いに至った。
 気力の萎えでしかないはずだか、得意の他のせいー今日は気象状況が悪すぎるーにして、穏やかな昼に改めて書こう。と思う。

 さて、十一日。私が野球部の顧問からサッカー部の顧問になった年、彼女はマネージャーであったはずだ。あの頃、サッカー部のマネージャーは確か七名で、数も多く、また賑やかな生徒ばかりだった。高校生になって初めてサッカーを始めるハンディもあり、部の成績はよくなかったが、応援ではどこにも負けないと言っていただけあって、かなり騒々しかった。その中で、板谷さんは落着いていて、趣があった。
 グラウンドを吹き抜ける風に実にピッタリ合うとの印象がある。浮き玉がファーと浮いた時、あるいはペナルティーゴールを狙う前の一瞬の静寂。そんな時と彼女はよく似合った。多くマネージャーがいた中で彼女の印象が強く残っているのは、彼女が亡くなった、というせいばかりではない。

 そのうち彼女は入院した。高校生が入院すると成長期のバランスの崩れもあって往々にして長期入院になることがある。そんな例を時折耳にしていたので、彼女の入院についても軽い気持ちでいた。意外と長びいているナァと思い出した頃、金沢へ出掛けたついでに医科大付属病院へ見舞いに寄った。受付けに面会の旨を伝え、板谷さんの名前を調べてもらったが、入院名簿に載っていないという。退院して何日かすると名簿に記載していないので退院しているのでは…という話だった。確かに彼女はその時既に退院して家にいたのである。汽車で会ったのは、それから間もなくのことで、四月から復学できるとか、どんな病気だったのか、など、二言三言言葉を交わし、見舞にいった病院は違う病院だったということも、汽車の中の会話でわかったのだった。そして、それまでの彼女らしく律義に小木駅で、ほほえみながら列車がホームを離れるのを見送ってくれたその姿が、私にとって彼女の今生での見納めとなったのである。

 彼女の病が不治のものであることを知っていたら、次は間違えることなく見舞いに行ったであろう。それが心残りではあるが、たとえ見舞いに行っていたとしても、それは自分にとってのささやかな慰めにしかならない。むしろ心残りがあって、板谷さんとの会話があることに、感謝しなければならないのだろう。
 板谷さんが亡くなり、今晩お通夜が営まれると知らされたのは担任の羽柴先生からであった。彼は彼女が助からないことを数ヶ月前から知っていたらしい。あとで生徒の中でも何人かは既に知っていたという話を聞いて、比較的身近にいたつもりでありながら知らずにいたのは自分ぐらいだったのかもしれないと思った。
 お通夜には、予定より早くついたので、みどりさんはまだ布団の中にいた。「ああ板谷やなァ!」と、それ以上は感慨の湧きようのない出あいだった。棺が用意され、男手が足りなくて、頭から肩にかけ、棺に入れてあげたその時は、軽いとか肉体の重みに対する思いはあったのだろうが、今は覚えていない。ただ、板谷さんにしてあげれたことはこれだけだったとの思いが胸をよぎった。
 その頃から次々と同級生達が集まってきた。「みどり!どーして待っていてくれなんだがア」と泣きじゃくりながら、枕元に花を添える姿に、出来るだけのめり込まないでおこうと、かたくなに構えている自分があった。彼女の頭には三角の紙がつけられた。いろいろの入の死に立ち合い、話には間いていたが、実際に見るのは始めてで、彼女を本当に死者にしむけているような複雑な気がした。やはり死を認めたくない気持ちが働いていたのだろうか。

 自分より年上の人の死は意外と冷静に受止められる。自分がその人の年齢になった時、彼はこの年、何を考えていたのだろうと思う。その点、年下の人の死はたまらない。
身近でたまらないのを学生時代に何度か経験した。結構仲良かった後輩の女の子が亡くなった時、何冊か貸してあった本が片身分けで色んな人のところに回っているという話を聞きながら、通夜も葬儀にもいかないで、友と下宿でその子をしのんだ。
 また、「僕らのところは土葬をやってる」との話を聞かせてくれた後輩に、今度つれていってくれと頼んでいたその本人が亡くなり、野辺送りの時「あいつは自分で土葬を西山さんに見せようとしたんかネ」とフトもらした彼の友の言葉を、秋風に流してしまいたいと思ったこともあった。
 これらはそれなりにつらかったが、年も近く、彼等の人生のよどみらしきものも少しは見えていた。
 板谷さんの場合は、美しすぎるまま亡くなったと思う。七才までに亡くなった子はまだ人になっておらず、天からの預かりっ子としてあの世へ返すのだという話を各地で聞くが、今の私には、彼女はまさにそのようにして逝ったとしか思えない。
 先に行っている極楽で、あとでそちらへ行く機会があったなら、「ナーニ、先生!年いってェ」と声をかけてもらい、そのあと、彼女亡きあとの故郷の話に花を咲せたい、と願うのみである。

 この前、久し振りに彼女の家の前を車で通った…。
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 ※原文昭和63(1988)年1月11日。 2017(平成29)年3月4日再録