人生、乗如上人を敬う善男善女ー昭和58年(1983)11月23日ー

今日、数年後に「御崇敬(ごそっきょう)」を勤修される組(そ)へ行って、御崇敬とは?をお話しに行く。
羽鹿二郡、鳳至郡では知られていたが、より広い範囲の人々の目に触れる活字になったのは、昭和58年に刊行された『能登島町史』であり、新聞で最初に紹介されたのが、この記事である。
当時学芸部の砺波和年氏と夜を徹して、お参りし、砺波氏が記事を書かれた。
33年前のことである。

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北國新聞新聞・人生

記事

1488579062*中能登の御崇敬 乗如上人を敬う善男善女 一週間の法要、夜徹す御示談

いまも続く”生き仏”ことしで百八十年、中能登の御崇敬

柿の実が夕日に照らされて朱色に光り輝く農道のそこここを、お年寄りがひと塊、ふた塊になって歩いていく。その列について寺からほど近い在所に人ると、家々の前庭に「お参りご苦労さまです。ここは○○の家です」という小さな看板が立っている。夕げをすませて寺に戻ると、文字通り満堂の人。
 江戸時代後期から続く真宗門徒らによる一大仏事、御崇敬(ごそうきょう)の六日目の様子である。満座と呼ばれるお参りは、翌日の明け方近くまで夜を徹して続く。能登独自とも言える法要で、百八十回目のことしは、例年通り十一日から一週間、羽咋、七尾・鹿島の二市二郡などから約六百人を集め、富来町中山で盛大に営まれた。

享和二年から

御崇敬は歓喜光院殿(かんぎこういんでん)御崇敬とも言われ、東本願寺第十九代・乗如(院号歓喜光院)をうやまう行事である。
 天明八年(一七八八年)、京都の大火で東本願寺も焼け、各地の門徒が再建のために上山したと、大谷派参議会議員も務める谷村林造さん(六一)=志賀町北吉田=はこう話す。
 「能登はたくさんお金を上げられなかったというか、代わりに労力を提供した。家や仕事を捨て十三年もの間、本山で両堂再建のために尽力した。詰め所で乗如上人がお話をしてくれ、いつか親子のようなつながりになった。私たちはその血をくんでいるもんで、今も続けている」
 工事は享和元年(一八〇一)に落成し、帰国する門徒衆らに歓喜光院御真影(絵像)が下付される。一説によると、当時の絵像は全国で三十六幅になるそうだが、このうち羽咋・鹿島両郡では翌享和二年から、法義相続の意味あいもこめて御崇敬が発足。
 公儀から禁止された二カ年を除き、いまに至っている。ことしの宿寺となったのは同町
中山の正念寺。同寺にとっては百三十七年前の弘化三年(一八四六年)以来、二回目の御崇敬である。
 その絵像への対応を見ていると、こうした長い経緯は過去のこととして片付けられていないことが分かる。つまり、歓喜光院は法宝物に違いないが、礼拝つづけられて生き仏になっていると言ってもよい。例えば、受け入れ方の一人である正念寺門徒総代は、謝辞の中で「歓喜光院さまは今、”能登門徒衆よ、私を慕って参ってくれて本当にありがとう”と言われているような気がする」と参けい者に呼びかけた。

歌うように語り

 一週間の御崇敬の毎日のおつとめで、最も内容の盛りだくさんなのが、第六日から最終日にかけての満座。午前八時からのお朝事である晨朝(じんじょう)に始まり、時間を追って日中、逮夜(たいや)、初夜と続き、日が改まって晨朝と、ことしは午前四時に終了となった。
 時間ごとの法要の中身は、読経、説教、教義を分かりやすく説いた御文(おふみ)の朗読などで、かごを伸ばしての賽銭あつめもひんぱん。
 午後七時からの初夜も似たような形で進み、昨年と来年の宿寺の住職による「送り説教」「迎え説教」の後、御崇敬のクライマックスとも言える御示談(ごじだん)が午後十時から始まる。
 御示談には僧職は加わらず、門徒同士が教義のうえでの所信と疑問を述べ、別の人がそれに答える形。司会者が「同行(どうぎょう)呼び出し表」に基づいて、まず答弁者を指名。「ご不審を出してあげて下さい」と質問を促す。
 すかさず「一言お育て下さいませ」との質問があると「日ごろの頂きなりをお調べ下さ
い」と回答が始まる。
 司会者が「おみとーっ」と声を掛けると、答弁者が交代。午前零時すぎには在所の宿泊所へ帰る人も目だち、本堂に残ったのは八十人ほど。変わらず延々と御示談が続くが、能登の人はこんなに早口で達弁だったかとも思わされる。
 あるいは、加賀ではまず耳に出来ない節付きの念仏を絶えず口にする同行衆も。午前二時二十分。顔見知りの気やすさからか「昔の御示談は知恵比べだったので、人に嫌われた。今の話をせなならん」。が、外の風まじりの雷雨を気にするふうもなく、文語体がまじり、半ば歌うように、酔うように語り続ける人も。いずれにしても、何十年かのこの場を踏んだ経験をもとに話されていることは分かる。

地域が支える

 「御崇敬は精神的レクリエーションですよ。旅行をし、知らない家方にごやっかいに
なる。知己とも一年ぶりに再会でき、ともに語り合う」。
 以前、能登のある門徒が述べたこんな意味づけは、富来町でも同様だった。
一泊二食付きで三千円(うち五百円は本山へ志納)。宿所の民家で酒を飲み、本堂に間食を持参し、休憩時間には肩を寄せ合って話し合う。ことしの宿泊者は四百人近く。
 それだけに受け入れは集落あげての形をとり、中山と隣の豊後名(ぶんごめ)の二集落、四十九戸のほとんどの家で、十人から二十人を泊めたという。
 そのために三年前から準備をし、.能登教区第四組(そ)に当たる富来町レベルの会合を含めると、.三十回余りを重ね、総額五百万円の予算や宿泊態勢を検討。当日は全員が勤めを休み、青年団も総出で参加者の送迎に当たった。御崇敬は間違いなく、めったにない盛事として地域が支えている。
 十七日夜。御真影は近くの民家に移されて、流れ御崇敬を執行。一月以降もこれまで通り、中能登の寺や民家を回り続ける。

 石川県内の御崇敬は能登地方に残り、羽咋・鹿島の場合、当初は十二月二十三日から一月七日にかけて行われていたが、十二月になり、その後、今のような形になった。……
以下欠

2017(平成29)0303作成
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この写真が中山の時の御示談風景。
教務所で写真をお見せしたら、2人の職員(木下、)さんが、すぐ真ん中で答えておいでる女性同行さんの名をおっしゃった。
有名な方だったらしい、そのトップにおいでたのが記事に登場する谷村さんだった。
その頃は、同じ真宗世界の住人であるはずなのに、ずいぶん遠い世界だった。